幕間2-4
だが、この動きは日米の猛反発を買った。
奉天派が割れて、満州が動乱の地となることは、日米の満蒙権益が侵されることになるからである。
日本は、当時1個師団を駐箚させていた関東軍の増派を表明し、米国も海兵隊の満州派遣を行い、張作霖支持を鮮明にした。
日本国内には、中国内戦厳正中立主義から介入に反対する幣原外相らの意見もあったが、満蒙権益が危機にさらされており、米国からも介入要請があったことから、張作霖支持を行ったのである。
更に米国は張作霖に大量の武器等の物資援助を行った。
この結果、郭松齢は敗死し、馮玉祥自身は、ソ連からの援助を引き出すためもあったが、ソ連へ亡命すると言う結末を迎え、事実上、張作霖率いる奉天派の単独政権が1925年末に北京に樹立された。
一方、北京政府から離脱した中国国民党は、広東政府を樹立していた。
ソ連(及び独)の支援を受けた広東政府は、1924年に黄埔士官学校を設ける等、着々と軍事基盤を強化していた。
その一方で、孫文の後継者を巡り、中国国民党内では暗闘が起きた。
特に問題となったのは、共産主義に対する考えである。
蒋介石を中心とする右派は、共産主義に対して反発するようになっていた。
また、悲願となっている中国統一を果たすためのいわゆる「北伐」をいつ実施するか、でも、国民党内は揉めた。
右派は「北伐」の早期の実施を主張し、左派は時期尚早として反対したからである。
また、1925年初め頃から長江流域以南を中心に中国国内では、共産党や国民党の援助する労働運動が活発になっていた。
特に5月30日に上海で日系企業で起きたストライキに伴うデモ行動に対し、英国を中心とする租界警察が発砲して、死者を出した事件(いわゆる五・三〇事件)は、中国国内の広範囲に更なる抗議行動を頻発させるきっかけとなり、反英米日運動が更に高まった。
こういった状況は、中国の国民に急速に国民党や共産党の支持が広まる要因となり、後の北伐成功につながることになる。
その一方で、対中政策上、英国と日本が日英同盟復活の極秘交渉を開始し、米国も暗黙裡にそれを支持するという事態も引き起こすのである。
こういった背景から、終に蒋介石率いる国民党右派は1926年3月、「中山艦事件」をきっかけに広州全市に戒厳令を敷く等、国民党内の主導権を握る。
共産党や国民党左派は、この動きに強く反発したが、軍部の大勢が蒋介石を支持したことや、ソ連政府が蒋介石ら国民党右派の行動を(国民党内部の内輪もめは、敵である北京政府や英米日を利するという論理から)黙認したことから、矛を収めざるを得なかった。
その後、蒋介石は着々と国民党内の基盤を固め、毛沢東ら共産党員は国民党から半ば追い出されるようになった(それまでは、共産党員が国民党員を兼ねることが認められていたが、共産党員が国民党員を兼ねることが禁止された。)。
そして、同年7月、蒋介石は「北伐」を本格開始した。
約10万人の国民党軍は民衆の支持を得て、急速に進軍、同年末には武漢等の占領に成功、蒋介石は、翌年中の中国統一を呼号するようになっていた。
こういった事情から、現在の日本国内では、「北伐」に対処し、中国本土の日本権益を守るために何らかの軍事行動が必要になるのではないか、という議論が巻き起こっていた。
林忠崇元帥や土方勇志提督は、その議論を見聞きするたびに、頭が痛くなるのを覚えた。
なぜなら、その際に尖兵になるのは間違いなく海兵隊になるからである。
そして、海兵隊が赴くことで、底無しの泥沼に日本が落ち込むことになるのではないか、という不安感を、義和団事件の経験等から、2人は覚えていたからである。
これで東アジア情勢の説明は終わりです。
次話は欧州情勢の説明になります。
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