幕間2-3
東アジア情勢の説明になります。
長くなるので、2つに分けます。
「それにしても、東アジア情勢は本当に気が抜けない日々が続いておるな。韓国といい、中華民国といい、いろいろ国内外に問題を抱えている。ソ連の脅威は言うまでもない。本当に日本はどうすべきか、どうなるのか、気が抜けない日々が続きそうだな
林忠崇元帥の言葉に土方勇志提督は黙って肯いた。
実際に韓国は、シベリア出兵のトラブルから国内政治が大揉めに揉める事態を引き起こしていた。
誰がどう見ても、韓国にとってシベリア出兵は大失敗なのは間違いなかった。
韓国にとって、シベリア出兵は無駄金を遣い、死傷者を出し、同盟国ともいえる日本から尼港事件で難詰されるという事態を引き起こしてしまったからである。
かといって、誰が悪いというのも難しかった。
日本が世界大戦の欧州派兵で余裕が無いと言っている状況から、今こそ韓国の国威発揚の絶好機とばかりに、それこそ与野党議員から軍部まで一丸となって、シベリア出兵にまい進してしまっていたからである。
そのために却って、お互いの非難合戦が起こってしまい、一番韓国の政治が混乱した1921年の1年の間に、内閣が3つも成立するという政治の大混乱がもたらされた。
だが、ソ連=ポーランド戦争が終結する等、ロシア内戦の混乱が収まるにつれ、韓国内にソ連の脅威から一致結束すべきだという輿論が巻き起こり、1923年には何とか韓国の政局は安定した。
また、世界大戦の戦訓から日本の軍改革が進むのを横目で見た事から、韓国陸軍も建軍当初の鎮台制から旅団制へ、更に師団制へと移行した(1927年当時、韓国は、海軍は沿岸警備隊的なものしか保有しておらず、日本で言えば軽巡洋艦までしか保有していなかった。また、空軍も小規模な陸軍航空隊に過ぎず、日本の中古軍用機を譲り受けて、運用している有様だった。)。
日本の陸海軍上層部から見れば、こうして改革がなされて新編成された韓国軍5個師団(3単位制)は、日本陸軍2個師団程度とみなされる実力しかなかったが、当面の間、韓国の自衛には充分な戦力なのは間違いない存在だった。
だが、中国の状況が、それを揺るがそうとしていた。
1924年10月に引き起こされた「北京政変」は、一時的に奉天派、旧安徽派、馮玉祥将軍派、孫文率いる中国国民党の4勢力による大連立政権を樹立させたが、それは極めて脆い存在に過ぎなかった。
まず、この中で最も中国の国民の間に人気のあった孫文が、1925年3月、肝臓がんにより北京で死去した。
「北京政変」の頃には、肝臓がんによる体調の異変を、孫文自身が訴えるようになっている状況であり、手術等で何とか孫文を救命しようと周囲は試みたが、どうにもならなかったのである。
そういった状況下で、1924年11月に有名な「大アジア主義講演」を神戸にて孫文は行うのだが、このことは韓国の指導者層から庶民までに、中国国民党への警戒感を呼び起こすきっかけの一つになった。
そして、孫文の死は、中国国民党の北京政府への参加を完全に見送らせることになった。
派閥を超えた国民会議を開催するという北京政府の方針に、孫文自身は賛成していたが、中国国民党内では反発が強く、中国国民党単独政権樹立への願望が強かった。
孫文が亡くなったことで、中国国民党は、北京政府から完全に離脱して、北京政府への敵対を宣言する。
旧安徽派は以前の軍閥戦争(安直戦争)で勢力を完全に落しており、馮玉祥将軍は、このような状況から国民軍編成を宣言し、奉天派の郭松齢将軍を味方に引き入れて、対奉天派の戦争に打って出ることで、自らが北京政府の権力を握ろうと試みた。
こうして、北京周辺で、またもや大規模な内戦が勃発することになった。
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