幕間2-2
主に日本の国内の政治情勢説明回になります。
「それにしても、関東大震災以来、いろいろ時の経つのが速すぎる。わしが年を取ったせいかもしれないがな。今の首相は、若槻礼次郎だったかな。年を取って、耄碌したせいで、今の首相が誰かがすぐには明確に分からなくなった」
林忠崇(予備役)元帥は、ぼやく様に言い、それを聞いた土方勇志提督も、あらためて思いを巡らせた。
関東大震災による帝都東京周辺による被害は甚大なものがあった。
陸海軍部にとって、少しは幸いなことだったが、戦艦から空母に改装されることになっていた「伊勢」は神戸で、「日向」は長崎で建造されていたために、関東大震災による被害を免れ、順調に空母として竣工することができたが、それ以外は(人員、装備共に)いろいろと多大な被害が出た。
そして、関東大震災の被害について、復興を目指すのか、復旧で済ませるのか、で激論が巻き起こった。
最終的にそれを最大の争点とした衆議院選挙の結果、復興を目指すことになったのだが、そのお蔭で未だに帝都東京の首都機能が完全回復したとは言い難い状況に陥っている。
また、別の意味でも一部の政治家にとって頭が痛い事態を、関東大震災は引き起こしていた。
関東大震災への対応のために、元老山本権兵衛が乗りだし、自らを首相として挙国一致内閣を率いた。
この挙国一致内閣のお蔭で、帝都復興が成ったと言っても良かったが、光があれば影も生じる。
立憲政友会内部は、山本内閣への対応を直接の原因として、分裂してしまう。
床次竹二郎らは政友本党を結成し、山本内閣を攻撃した。
これに対抗するために、山本内閣は衆議院選挙に打って出て大勝利を収めたが、議席を大幅に伸ばしたのは憲政会で、それ以外の政党、立憲政友会等は議席を減らした。
そのため、1924年6月に山本首相は、加藤高明憲政党党首に首相の地位を禅譲した。
この状況から、立憲政友会自身は、元陸相の田中義一を新総裁として迎え入れるのだが、このことは長年の立憲政友会の政治姿勢(軍事費の合理化、削減)を微妙に変質させると共に、長年に渡り、日本の政界で与党乃至第一党の地位を占めていた立憲政友会優位の政党体制を、立憲政友会と立憲民政党(厳密に言うと立憲民政党の結党は、この後に述べる1927年の南京事件に伴う日英米対中国限定戦争の後であり、この時点では立憲民政党は存在しない。)の二大政党制へと変質させることになるのである。
そして、このような状況の下、普通選挙制と治安維持法が事実上セットで1925年4月に成立する。
ちなみに林元帥は、貴族院議員でもあり、この法律制定については共に賛成している。
サムライという呼び名に反して、明治初期の海兵隊は、実は東京等のいわゆる無産、貧困市民層からの志願兵を主力として成立(これは海兵隊の淵源ともいえる幕府歩兵隊がそうであった)しており、そのことを熟知している林元帥にしてみれば、普通選挙制に共感するとともに、それに伴う日本国内への共産主義の浸透に警戒感を(当時としてみれば、ある程度やむを得ないが)必然的に覚えたことから、このような投票行動をとったのである。
その一方、加藤内閣は山本内閣から支持基盤を引き継ぎ、準挙国一致内閣として振る舞ったが、与党内の対立から立憲政友会や革新倶楽部の離反を招き、1925年6月に加藤内閣は憲政会単独内閣へと転落し、少数与党内閣となってしまう。
そのための心労もあったのだろう、1926年1月の帝国議会開会中に、加藤首相は風邪をこじらせてしまったことから、肺炎にかかり亡くなってしまう。
こういった状況から、若槻礼次郎内相が後継首相となり、1927年1月現在、若槻内閣が日本の国政を担っていた。
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