第8章ー1 北京の混迷と皇帝溥儀
新章の開始です。
1924年秋が舞台です
1920年代前半、中国情勢は混迷の極みにあった。
当時のいわゆる中国本土(満州やチベット等では、現地政権が事実上支配権を確立していた)は、主に3つに分断されていた。
まず、外国から正統政府と認定されている北京政府が存在していた。
系譜から言うと、辛亥革命後に成立した袁世凱政権を受け継ぐもので、袁世凱の死後は、段祺瑞を中心とする安徽派が北京政府を握っていたが、様々な思惑から、1920年に英国が支援する直隷派と米国が支援する奉天派が連合して、安徽派を攻撃して、安徽派を追い落とした。
そのために直隷派と奉天派の連合政権が、北京で一時成立したが、1922年に直隷派と奉天派の仲が完全決裂してしまう。
直隷派は奉天派に対して大攻勢を行い、奉天派を北京から追い落とし、満州に奉天派を追放することに成功する。
こうして、一時的に直隷派は北京政府を自派で固めることに成功した。
一方、孫文率いる中国国民党を指導層とする広東政府も、広東を中心に主に長江以南において、端倪すべからざる勢力を維持していた。
1919年に結成された中国国民党は、ソ連政府に学び、党国体制(中国国民党と中華民国政府は同格であり、中国国民党以外の政権樹立を訴えることは、中華民国政府に対する反乱を訴えるのと同じことになるという体制)を標榜し、1920年に広東政府を樹立した。
更にソ連の仲介により、中国共産党の党員が、中国国民党の党員になることを是認し、国共合作を行い、中央集権制に基づく中国の統一を果たそうと策した。
多くの外国人から見れば、どう見ても民主制とは程遠い独裁政権に他ならないが、反日米英を唱えて、過激な国権回復を訴える広東政府は、広東政府の支配下にない中国民衆の多くからも、国粋主義から熱狂的な支持を受けていた。
広東政府は、地元の軍閥勢力と角逐を繰り返し、一時は孫文も上海に逃げ込む羽目になるが、1923年以降は、安定した政権を樹立することに成功する。
だが、1920年代前半(1924年以前)は、日英が事実上承認していたチベット政権と違い、「事実上の政府」であると広東政府を認識していた外国政府は、ソ連とドイツだけといってよい状況だった。
満蒙から香港まで、一切の中国での外国利権を否定する広東政府を支持することなど、中国で数多くの利権を持つ英米日の思惑を考えれば、多くの外国政府には考えられない事だったからだ。
また、いわゆる「聯省自治」という運動も無視できるものではなかった。
その省出身者がその省を治めることとして、辛亥革命直後にあったように、省連合により中国連邦政府を結成しようという運動である。
北京政府と広東政府に挟まれた省では、「聯省自治」運動が特に盛んであり、一時は、中国連邦政府が出来るのでは、という観測が中国国内でも強かった。
だが、北京政府、広東政府共に中央集権主義が強く、「聯省自治」運動を倒そうとしたために、そもそも独自の軍事力に欠けた「聯省自治」運動は1920年代半ばには失速して潰えることになる。
(北京政府は、清朝末期の北洋軍閥の流れを基本的に汲んでおり、独自の軍事力を保有していた。
また、広東政府も、ソ連等の援助により独自の軍事力を育成していた。
だが、「聯省自治」運動を行った省政府は、文民中心で独自の軍事力をほとんど保有していなかった。
それに「聯省自治」により中国連邦政府が成立したとしても、それがどんな政策を掲げるのか、各省政府の思惑がかなり食い違っていたために、「聯省自治」運動のまとまりが無かったのも、「聯省自治」運動の失敗の要因として大きい。)
こういった状況下、奉天派は再度の直隷派への攻撃を策していた。
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