第7章ー7
このように空軍は、いろいろ将来を見据えた総力戦体制を作ろうとしていたが、航空関係の企業も空軍の期待に応えるべく、うごめいた。
特に鈴木重工の中島知久平は、目の色を変えて動いた。
「このままではいかん」
上記の言葉を口癖に、中島は動き回った。
中島は第一次世界大戦後、欧州で海軍航空隊の航空機整備の尽力した功績等から海軍少佐に昇進するも、民間で航空機製造に携わりたいという夢を本人自身がかねてから抱いていたことや、鈴木商店の高畑誠一ロンドン支店長(鈴木商店の2代目、鈴木岩次郎の女婿でもあり、鈴木商店の3代目になる)に、是非ともわが社で航空機製造をと乞われたこともあり、願ってもない話としてこれを受け、海軍を退役し、鈴木重工の航空機部門の長に転職していた。
そんな中島のプライドを傷つけたのが、1923年になっても、未だに日本の空軍機にも海軍機にも、実戦用の機体として鈴木重工が開発、製造した航空機が採用されていないことだった。
空軍に鈴木重工が開発、製造した練習機は何とか採用されたが、所詮は練習機である。
実戦用の機体を鈴木重工で開発する、中島は固く決意した。
幸か不幸か、鈴木重工は自動車製造の関係で米国のGMから支援を受けていた。
中島はこの関係に目を付けた。
GMを介して、中島はボーイング社と関係を築くことに成功した。
それによって、米海軍のFB戦闘機のノウハウについて教えをまずは乞い、艦載機開発の技術を鈴木重工は蓄積することになる。
また、これをきっかけにボーイング社との関係を鈴木重工の航空機部門は深めていき、その関係から、プラットアンドホイットニー社製のエンジンのライセンス生産等にも鈴木重工は関わることになった。
それを横目で見て、心穏やかならざる存在になったのが、三菱重工だった。
三菱重工も自動車製造の関係で米国のフォード社と提携していた。
三菱重工もフォード社を介して、パッカード社等と関係を築くことに成功した。
こうして、日本の航空機産業で先行していた鈴木重工と三菱重工は、米国の航空機産業と提携し、各種支援を受けることで、各種技術(開発から量産に至るまで)を進歩させていくことになる。
一方、日本の航空機産業で後発となった川崎重工や愛知飛行機は、航空機の各種技術の進歩について、鈴木重工や三菱重工とは、別のアプローチを取らざるを得なかった。
理由は極めて簡単である。
鈴木や三菱は、既に米国の航空機産業と太いパイプを築いている。
後から、そのノウハウを提供してくれと言っても、自分達に不利になるのが目に見えていたからだ。
では、どうするか。
川崎や愛知は、悪魔と手を組むことを決断した。
1920年代前半、ドイツの航空機産業関係は、完全崩壊状態にあった。
ヴェルサイユ条約により、ドイツは空軍の保有が禁止され、あれもダメ、これもダメと何重にも規制が掛けられ、完全に息の根が止められているかに見えた。
川崎や愛知は、このドイツの航空機産業関係、特に技術者を手に入れようと策した。
幸か不幸か、ドイツ陸軍と日本陸軍は関係が深い。
確かに第一次世界大戦で、日独は敵対しており、アジアのみならず西部戦線で死闘を演じているが、日本の海兵隊、海軍が対独戦を主導したものであり、日本陸軍は後追いで西部戦線に派兵されてきたというのは公知の事実と言ってよかった。
川崎や愛知は、日本陸軍、特に空軍関係者を通じて、ドイツの航空機産業関係、特に技術者を自らの会社で雇おうと動いた。
だが、彼らは知らなかった。
日本陸海軍首脳部自身が、ドイツの軍部の裏を探ろうとしており、その一環として、秘密の裡に川崎や愛知の動きを、積極的に支援していたのである。
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