第7章ー6
場面が変わり、背景説明の回になります。
こうして、日本海軍航空隊は、国産開発の艦上機を保有することになったが、日本空軍もこのまま黙っているわけには行かなかった。
何としても国産開発の陸上機をと頑張ったが、そもそも開発費が馬鹿にならない。
とりあえず、空軍は、鈴木に既に国産開発の練習機(制式名称は鈴木式五型練習機)を作らせてはいたが、空軍としては完全に満足の行く代物ではなかった。
そのために、新たな空軍の制式戦闘機に決まったフランス製のニューポール29戦闘機のライセンス生産を鈴木等に行わせたり、これまでにも軍関係の注文を引き受けてきた川崎や愛知等にも航空機関係の注文を行ったりした。
空軍自身が、航空機関係の技術本部を設け、そこで独自開発の空軍機を試作したり、海外から技術者を招聘したりということもした。
それによって、更なる軍用機の経験を積ませたり、技術関係の裾野を広げたりする等、空軍は涙ぐましい努力を重ねることになる。
そうした中で、空軍が力を入れたのが、民間での航空関係の人材等の育成だった。
海軍航空隊とも協力して、日本国内の多くの大学に航空部を設立させて、現役の軍人を表向きは予備役編入の上で、航空部の顧問講師として派遣するようなこともした。
もちろん、そのような航空部が機材を始めとする必要な物資を購入する際の費用は、軍部の伝手を使い、割引価格で調達させている。
また、曲芸飛行を日本各地のイベントで行い、航空機への国民の関心を高めようともした。
民間で飛行クラブや航空会社を作りたいという声が空軍に届けば、すぐに空軍が教官等として現役軍人を派遣したり、資材を買うための補助金を出したりと言うこともしている。
少しでも航空関係のすそ野を広げないと、日本の航空産業は軍需に完全依存するいびつなものとなり、それは総力戦の際によくないと、第一次世界大戦で血を流した陸海軍の首脳は考えており、その支持を受けて空軍や海軍航空隊は、民間での航空関係のすそ野を広げるために苦心惨憺した。
もちろん、軍の人材育成を怠るわけには行かなかった。
1922年、空軍は、下士官から特務士官への昇進を見込んだ少年飛行兵制度を導入した。
ほぼ同時に海軍も、海軍航空隊のために似たような飛行予科練制度を導入している。
本来から言えば、操縦士等、航空機の搭乗員全てを士官で賄いたかったが、そんな教育水準に日本の社会が無い以上(士官にはかなりの教育水準が必要であり、大学卒業程度の教育水準が不可欠になる)、操縦士から整備兵等々は、日本は下士官である程度は賄うしかなかった。
1920年代の軍縮の時代に、何でここまで血眼に日本はなっていたのだ、と思われるだろうが、第一次世界大戦で航空兵の膨大な損耗と急な拡張に目を剥く羽目になった福田雅太郎空軍本部長らにしてみれば、平時の内にある程度の制度や準備を整えておかないと戦争の際にはどうにもならない、という半ば脅迫観念に駆られていたのである。
何しろ、日本では1915年に海軍が遣欧の航空隊操縦士60人を基幹として派遣したのが皮切りだったのが、1918年末には、陸海軍併せて操縦士だけで2000人近くと、30倍以上に陸海軍航空隊を拡張する羽目になっていたのである。
勿論、その間の損耗も馬鹿にならない。
特にヴェルダン戦では、半年も経たない内に海軍航空隊の操縦士約250名が100名を切る(つまり6割以上が戦死した)という航空損耗戦を、日本は戦ったのだ。
悲観的に過ぎると言えば、そうかもしれないが、軍人として最悪の事態に備えねばならない、というのはある意味で当然のことである。
将来、同様の事態が起きるのでは、と空軍関係者が懸念したのは当然だった。
30倍以上とはおおげさ、と思われそうですが。
ネット情報だとフランス軍の操縦者が第一次世界大戦時に220名だったのが、大戦中に17000人近くも養成したというものもありました。
つまり80倍近くに増えています。
だから、無茶苦茶な数字とは言えないかと。
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