幕間ー5
後藤新平内相は、閣議において山本権兵衛首相に省庁を横断した独立機関が、帝都復興には必要であると説き、山本首相や他の閣僚の賛同を得て、帝都復興院を1923年9月末に設立した。
そして、自らが帝都復興院の総裁を兼ねた。
後藤が外部の協力者(米国のビアードが中でも著名)や帝都復興院の職員に帝都を大復興させるのに必要な予算を試算させたところ、30億円(当時の国家予算の約2倍)が必要という試算が出た。
後藤が閣議で同年10月末にその旨を報告したところ、多くの閣僚が肝を潰した。
関東大震災で大被害を被っており、税収が減るのは必至である。
そして、第一次世界大戦後の反動不況、更にワシントン海軍軍縮条約締結による更なる不況(海軍軍縮条約は、これ以上の軍事費の増大を押し止めたという長期的な視点では有効だったが、短期的には海軍の軍艦建造と言う公共事業が無くなることを意味しており、更なる不況を招いた)が起きている。
そんな不況の最中、国家予算の約2倍を費やす帝都復興を行おうと後藤は言いだしたのである。
「大風呂敷の男」の面目躍如たるものがあった。
さすがに山本首相までがもう少し額を減らせないのか、と言いだす羽目になったが、高橋是清蔵相が押しとどめた。
「おもしろい。日露戦争並みの国難という訳ですな。よろしい。何とかして見せましょう」
高橋蔵相は、財政の専門家である。
後藤の30億円と言うのが、予算獲得の方便なのが、一目でわかった。
実際にはかなりの部分を他の省庁の予算としてやれば、その省庁が既得権益になるとして頑張るだろう。
帝都復興院単独で必要なのは8億円と言ったところか、それなら外債で何とかなる。
こうして、帝都復興計画はスタートした。
だが、これだけの大計画である。
早速、様々な抵抗が出た。
11月末から始まった帝都復興審議会では、伊藤巳代治を中心とする帝都を復興では無く、復旧させるべきと言う主張が強く、挙国一致の山本内閣の指導力をもってしても、後藤の思うような計画に素直に肯かなかった(伊東は銀座の大地主でもあったので、自らの利益のために、後藤の計画に反対したという。)。
12月からの帝国議会でも、挙国一致内閣とはいえ、議員には議員の利益があるので、多くの議員から、疑問や反対の声が挙がった。
特に与党議員として利益を享受していた政友会議員からしてみれば、後藤の計画は自らの地盤への利益誘導の資金減少につながるのが目に見えており、高橋是清総裁の説得にも素直には肯かなかった。
更に12月27日、虎ノ門事件発生。
山本権兵衛内閣は総辞職の危機に見舞われたが、高橋、加藤、犬養の三党首が話し合い、山本内閣を引き続き支持することを表明したことから、何とか総辞職をせずに済んだ(三党首は、山本の後任首相候補が、清浦奎吾枢密院議長で、三党首全員を更迭する予定と聞き、山本支持で団結したという。)。
だが、こういったことが、最大政党の政友会の分裂を招いた(床次前内相を中心とする一派は、山本内閣は虎ノ門事件の政治責任を取るべきということを大義名分とし、実際には後藤の計画に賛成することは、地元への利益誘導が困難になることから、政友会を脱党、政友本党を結成した。)。
最終的に1924年5月、帝都復興問題を大きな争点として行われた衆議院選挙で、高橋、加藤、犬養の三党連合が大勝したことから、帝都大復興計画は、事実上承認された。
1年近く挙国一致内閣を率いた山本首相は、それを機に比較第一党党首となった加藤高明憲政会総裁に事実上、首相の地位を禅譲した。
ここに帝都復興計画が進むとともに、日本に高橋内閣以来の政党政治が完全復活することになった。
幕間の終わりです。
次から新章に移ります。
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