第1章ー1 空軍設立に伴う人事異動
結果的には描写が前後してしまうことになりますが、1920年4月の日本空軍設立に伴う人事異動から描写することにしました。
1920年4月1日、陸軍傘下に半独立の空軍が設立されることに伴い、人事の大異動が陸軍、海軍共に行われることになっていた。
1年余り前の1918年11月11日の世界大戦終結に伴い、欧州から大量の陸海軍軍人が帰国してきていた際にも人事異動があった。
実戦経験を積んだ軍人には、人事面でもそれなりに報いねばならない。
当然、彼らを昇進させたり、日の当たる地位に就けたりせざるを得ない。
そういったことから、彼らの処遇に陸海軍の人事担当者は頭を痛めることになったが、そのほとぼりが冷めるどころか、1年ほどで更に空軍設立に伴う人事の大異動である。
多くの人事担当者自身が、この騒動から免れるための異動を夢想する事態(実際にそんなことをしたら、自分が事務引継準備等で更に忙しくなるので夢想するだけ)が引き起こされてしまっていた。
1920年2月のある日、参謀本部にある参謀総長室を、福田雅太郎中将は訪ねていた。
「おう、よく来た。久しぶりだな」
その室の主は、扉を開けた福田中将に気さくに声を掛けた。
「お久しぶりです。秋山好古大将」
福田中将は、軽く敬礼しながら答えた。
「うむ、欧州以来だな」
秋山大将は笑顔で答えた。
秋山大将が前任の上原勇作参謀総長の後任として、日本に帰国後に参謀総長に就任したのは、1919年3月のことだった。
秋山大将が、参謀総長の実力を持つことについて、異論を挟む人は陸軍内どころか日本国内に絶無と言ってよかった。
海兵隊の林元帥海軍大将と共闘したのは、日露戦争時の奉天会戦が初めてだが、それ以来、林と秋山と言えば、大山と児玉と並ぶ名コンビとされている。
奉天、チロル、最終攻勢と、林と秋山のコンビは常勝を誇った。
海外への知名度では、大山と児玉を凌ぐかもしれなかった。
また、最新の世界大戦の戦訓の理解度という点について、専門家である外国の将帥からも、林と秋山は一目置かれている。
実際、ドイツが休戦を受け入れるまでにベルギー国王が首都に帰還できたのは、林と秋山が縦横に航空機と戦車という新兵器とそれを活用した新戦術を運用したことによるのを多くの外国の将帥が認めている。
こういったことから、秋山大将には欧州にいる頃から、参謀総長就任待望論があった。
だが、秋山大将が参謀総長に就任したのは、もう一つの理由があった。
1919年春の帝国議会で、日本は陸軍傘下に半独立の空軍を設立することが法律で決まった。
だが、当時の上原参謀総長が空軍創設に消極的だったのは公知の事実と言ってよかった。
空軍設立に伴い、それなりの数の海軍航空隊関係者が空軍に異動する予定だったが、上原参謀総長の下では、機材のみ空軍は受け取って、元海軍の軍人はすぐに予備役編入等に追い込まれるのではないか、と海軍首脳部は懸念した。
これを好機と見たのが、寺内首相の後に、首相に就任した原敬だった。
原首相は、参謀本部解体を持論とするものの現実的観点から、まずは参謀本部の権限縮小を考えていた。
だが、その前に上原参謀総長が立ちはだかっていたのである。
野津道貫元帥の女婿として薩派の後援を受け、上原閥といわれる派閥を陸軍内に築き上げた上原参謀総長は原首相にとって目の上のたんこぶだった。
海軍の懸念を利用した原首相は山本権兵衛元首相も介して、上原参謀総長の更迭を陸軍に要求した。
薩派の山本元首相まで原首相に立ち、陸軍の総帥ともいえる山県有朋元帥からも空軍設立の際に不興を買っていては、上原参謀総長が地位にしがみつこうとしてもどうにもならなかった。
このために、上原参謀総長は辞任の止む無きに至り、秋山大将が欧州から帰国後すぐに参謀総長に就任することとなっていたのである。
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