第5章ー7
原敬内閣に後藤新平を鉄道相として送り込むことに成功したとはいえ、梅津美治郎を中心とする陸軍の若手将校たちは、手を緩めるつもりは無かった。
そもそも原内閣としては、鉄道の改軌等全くするつもりが無かったのである。
鉄道の改軌の必要性を後藤鉄道相が懸命に訴え、田中義一陸相や加藤友三郎海相がそれに味方しても、そのために、原首相にその意趣返しとしてその予算が全く無しとされては元も子もなくなる。
やれる限りのことはやっておかねばならない、パリ前面まで攻め込みながら、最終的には事実上無条件降伏のやむなきに至った独のような目にあってはならない、と梅津らは考えていた。
だが、その方策となると、まだまだ若手の梅津らには荷が重い話で、原首相に逆襲されかねない話だったが、原首相には困ったことに、陸海軍のバックには山県有朋に加え、山本権兵衛という元老が控えていた。
「ほうほう、鉄道の改軌を大々的に進めたいが、衆議院での与党、原首相率いる立憲政友会は、鉄道改軌に大反対なので、何とかする方策は無いかということか」
「ええ」
梅津らの相談を受けた海兵隊の若手士官達は、それを更に鈴木貫太郎海兵本部長や林忠崇元帥らにその相談を持ち込んだ。
鈴木海兵本部長も林元帥も、鉄道改軌の重要性は欧州戦線で理解している。
それで、この際、元老の山本元首相の知恵を借りようと、林元帥の仲介で、鈴木海兵本部長は、山本元首相の下を訪れて相談していた。
「そんな簡単なことに悩んでいたのか」
山本元首相は笑った。
「鉄道改軌を法律で定めればいいではないか」
山本元首相は、半ば放言した。
「は?」
鈴木海兵本部長には、すぐに意味が掴めなかった。
「鉄道敷設法の改正をすればいい。原首相ががどこまで真面目に鉄道改軌を進めるつもりなのか、それで試すことが出来る」
山本元首相は笑いながら言った。
山本元首相は、海軍出身の軍人首相だったが、軍政の専門家であり、法律について詳しかった。
帝国大学法科大学長を務めた穂積陳重をして、山本元首相は法律の専門家だと唸らせたことさえある。
そんな山本元首相にしてみれば、法律で政官界を縛るのは自明のことだった。
鉄道敷設法は1892年に制定された法律であり、当時の日本の鉄道整備の根幹を定めた法律と言ってよかった。
だが、1906年の鉄道国有法が制定されたこと、また、1919年当時には計画されていたほとんどの鉄道が完成していたこと等から役目を終えつつあった。
原首相としては、内閣設立当初は、この鉄道敷設法を大改正することで、地方に多くの鉄道を敷設する計画だった。
ちなみに1892年当時は33路線が計画されていたのが、原内閣の当初案では150近い路線が新しく計画されていたことからも、如何に原首相が「我田引鉄」に力を入れていたのかが分かる話である。
だが、床次内相の辞任、後藤鉄道相就任をきっかけに起こった鉄道改軌の逆風を前に、原内閣は寝た子を起こさないようにと、敢えて鉄道敷設法に触れずにやり過ごそうと方針転換をしていた。
何故なら、鉄道敷設法を大改正して地方に鉄道を敷設しつつ、鉄道改軌等、できる筈がないからである。
原首相としては、鉄道改軌を予算等を理由に阻止し、その裏で単年度毎に地方に鉄道を敷設しようと方針転換を図っていた。
だから、山本元首相の提案は、原首相の弱みを的確に衝くものと言えた。
「成程」
鈴木海兵本部長は唸り、この提案を加藤海相や田中陸相に伝えた。
加藤海相らは、後藤鉄道相と手を組み、鉄道敷設改正法案を原内閣で議会に提出するように働きかけた。
鉄道改軌を主眼とする鉄道敷設法改正法案は、原首相が率いる立憲政友会内に激震を走らせた。
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