第5章ー3
少し幕間めいた鉄道改軌の背景説明回になります。
鉄道改軌問題は、日露戦争前からも折に触れて議論されてきたが、鉄道改軌よりも主な鉄道を国有化するかどうかが、日本の鉄道については主な論点になっていた。
だが、日露戦争後には、鉄道改軌問題が、日本国内で本格的に議論されて、たびたび取り上げられる問題になっていた。
何故なら、1906年に鉄道国有法が成立し、主な日本の鉄道の国有化が決定されたからである。
そのために、日本の鉄道を、このまま狭軌で整備していくか、標準軌へと改軌するかが、次の鉄道問題の論点として着目されるようになった。
1908年に、後藤新平が、鉄道国有法成立に伴い、設置された鉄道院の初代総裁に就任した。
後藤は「大風呂敷の男」と言われるような気宇壮大な人物で、早速、鉄道の改軌方針を打ち出した。
その当初計画案は1911年から1923年まで、13年の歳月と総額2億3000万円を掛けて、鉄道を改軌しようとするものであった。
ちなみに1910年の日本の国家予算は6億円に満たない。
そして、改軌問題は当時の桂内閣を動かし、広軌鉄道改築準備委員会が設置された。
1911年8月、広軌鉄道改築準備委員会は報告書をまとめた。
その内容は、2億2789万6000円を掛けて、広軌改築を進めるべきという結論だった。
だが、同月、桂内閣は倒れ、西園寺公望内閣が成立する。
鉄道改軌問題はここにとん挫することになった。
西園寺内閣は、行財政再建を旗印とした。
そのために鉄道への予算を削らざるを得なかった。
更に、西園寺内閣の与党の立憲政友会にとって「我田引鉄」は何としても必要なものだった。
そのために、西園寺の下で党務を握っていた原敬は、自ら内相兼鉄道院総裁に就任して、このことに対処することにした。
こうなってくると、地方への鉄道建設優先という立憲政友会の党利がある以上、鉄道改軌に回す金等、一銭もないということになってくる。
西園寺内閣の後、僅かに桂内閣が復活するが、すぐに第一次護憲運動の高まりにより、山本権兵衛内閣が成立した。
山本内閣は、立憲政友会を準与党とし、鉄道院総裁に床次竹二郎を就任させた。
床次は原の腹心ともいえる存在であり、こういった状況から、鉄道改軌問題は完全封印状態となった。
まずは、鉄道建設優先と言う「建主改従」が鉄道院ではまかり通った。
しかし、1916年、山本内閣は、第一次世界大戦参戦に伴う海軍内部の不協和音から総辞職する羽目になり、寺内正毅内閣が成立する。
寺内内閣は、立憲政友会潰しの一環として、鉄道改軌問題を取り上げ、鉄道改軌論者の後藤を鉄道院総裁に呼び戻した。
後藤は、鉄道院内から幅広く鉄道改軌の意見を聴取した。
そうした意見の中で、後藤は島安次郎工作局長の意見に注目した。
島は三線化等を駆使することで、10年間、6000万円で日本国内の鉄道の応急的な改軌は可能と意見書で延べていた。
実際に横浜線で、1917年に3月間、島の提案通りにやってみて問題ないことが実証された。
後藤は、これで予算面の問題は大幅に減った、改軌が現実にできると狂喜した。
しかし、世界大戦に日本が本格参戦している以上、改軌は戦後にせざるを得なかった。
そして、世界大戦が終わるのを、後藤は心待ちにしていたが、皮肉にも寺内内閣が総辞職し、原内閣が成立したために、後藤は鉄道院総裁を追われることになった。
後任の内相兼鉄道院総裁は床次である。
こうなっては、鉄道改軌は最早、完全に潰されたと誰もが考えた。
島に至っては床次によって工作局長から左遷されたこともあり、鉄道院から辞職することを決め、日米合弁の満鉄に将来を託そうと身辺整理をする有様だった。
だが、事態は急展開することになる。
感想欄で指摘があったこともあり、史実を織り交ぜて、この世界なりの鉄道改軌の背景説明回にしました。
史実とうまく融合していればいいのですが。
ご意見、ご感想をお待ちしています。




