第3章ー1 林元帥の予備役編入
場面が変わります。
日本国内の動きになります。
ヴェルサイユ条約締結を見届けて、気が重くなりながらも、林忠崇元帥は、パリを去り、帰国の途に就くことになった。
牧野伸顕元外相の仲介もあり、林元帥は西園寺公望元首相と共に7月19日にマルセイユ港から神戸港へと「熱田丸」に乗って帰国した。
言うまでもないが、一部の欧州にて新任務に就くように辞令を受けた以外の全ての日本の欧州に出征していた兵士らは既に帰国済みである。
林元帥はただ一人で殿を務めて帰国することになった。
マルセイユから神戸に着く1月余りの船旅の間に林元帥は、西園寺元首相の知遇を深めた。
このことは後々に影響することになる。
8月23日に神戸港に着いた林元帥は、西園寺元首相と共に大歓迎を受けた。
翌、24日夜には東京駅に到着、更に原敬首相以下の出迎えを西園寺元首相と共に林元帥は受けた。
1918年12月26日、第42回帝国議会は招集され、その冒頭にて寺内正毅内閣は世界大戦終結を機に人心一新を図るという大義名分の下に、帝国空軍設立法案等を提出後に総辞職していた。
既に原敬の下、新内閣が設立されるように準備が整った上での寺内内閣の総辞職であり、粛々と原内閣は成立した。
原内閣は帝国空軍設立法案等を可決成立させた後、与党の立憲政友会が有利となる小選挙区を導入した新選挙法の下で総選挙を行おうと画策していている最中だった。
日本国民の多くからも、原首相は初の平民出身の首相と言うことで人気が高く、この人気を下に、高等教育の拡充や産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充の四大政綱を原内閣は唱えて、それを現実のものとしようとしていた。
あくまでも東京駅での本来の主役は西園寺元首相だったが、林元帥の人気も中々のものだった。
新聞記者もどちらを主に取材するか迷うくらいだった。
元老でヴェルサイユ条約締結の際の日本外交団の首席だった西園寺元首相を取材するか。
元帥として欧州の戦野で4年に渡って戦場の指揮を執り、英仏伊米の将兵からも畏敬の目を注がれた林元帥を取材するか。
新聞記者の多くが体が2つ欲しいと内心で願った。
林元帥は、新聞記者からの質問を当たり障りのない会話でかわしながら、いろいろと考えていた。
もう古稀を超える歳に自分は達している。
今忠勝の異名を持つ私が前線で指揮を執るのは無理になりつつある。
実際に欧州の戦野では、後方の司令部で自分は指揮を執る有様だった。
本来から言えば、戊辰戦争の戦野で骸を晒していた身だ。
それが、西南戦争を皮切りにこの世界大戦までも指揮を執り、名将の名をほしいままにしたのだ。
この栄光に包まれたまま、晩節を汚さずに元帥の地位を去るべきだろう。
さすがに生涯現役という特権を持つ元帥の自分が完全に退役することは無理だろうが、予備役編入位は我がままとして許されるのではないか。
だが、他の元帥、特に山県有朋、井上良馨両元帥の了解を得ないといけないだろう。
特に山県元帥の場合は、下手に言うとへそを曲げられるからな。
林元帥は、そんなことを考えつつ、新聞記者に対応した。
予め東京駅の近くに準備された宿舎に、林元帥がたどり着いたのは、24日の深夜で、25日になる寸前だった。
25日は、今上天皇陛下への帰朝報告だけで、林元帥の日程のほぼ全てが終わってしまった。
26日に、林元帥は故郷ともいえる海兵本部に顔を出した。
既に欧州から帰国していた鈴木貫太郎海兵本部長や、黒井悌次郎軍令部次長(海兵隊担当)は、予め林元帥から連絡を受けており、顔を揃えて、林元帥を海兵本部長室で出迎えた。
「お待ちしておりました」
鈴木、黒井両提督は敬礼して林元帥を出迎えた。
「うむ、相談事があって来た」
林元帥は答礼した後、話を始めた。
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