プロローグー登場人物紹介1
世界大戦が終結し、1920年4月1日、日本空軍が設立された直後の時点の登場人物紹介になります。
1 海兵隊所属
土方歳一中尉(1895年生)海軍兵学校45期生
父は土方勇志提督、祖父は土方歳三提督。
世界大戦時に西部戦線に派遣され、第3海兵師団の一員として実戦経験も持っている。
実は中々、海軍兵学校に受からず、父から諦めるように諭されたこともある。
岡村徳長中尉(1897年生)海軍兵学校45期生
土方中尉の同期生で。土方中尉曰く、親友と言うより腐れ縁。
世界大戦時に戦車乗りとして最終攻勢に参加した経歴を持ち、本人に言わせれば、不本意ながら戦車等に詳しくなってしまっている。
高木惣吉中尉(1893年生)海軍兵学校43期生
世界大戦に伴う海軍士官の消耗により、海軍本体から海兵隊に強制的に転属させられている。
世界大戦後は、海軍本体に戻りたいと希望を出していたにもかかわらず、高木中尉を気に入った米内大佐の策謀により握り潰され、海兵隊士官の道を歩むことになる。
石川信吾中尉(1894年生)海軍兵学校42期生
世界大戦時の土方中尉の同僚。
世界大戦時に覚えたサッカーにのめり込んでいる。
大田実大尉(1891年生)海軍兵学校41期生
後に地獄を見た41期生と謳われた41期生で唯一の当初からの海兵隊所属の生き残り。
世界大戦時の欧州派兵当初から欧州に赴いており、数々の実戦を経験したことから、陸軍士官の多くも一目置く実力の持ち主。
北白川宮成久大尉(1887年生)海軍兵学校36期生
海兵隊草創期の北白川宮能久提督の第三子で、北白川宮家を継承している。通常は、周囲に気を遣わせないために、北大尉の変名を用いている。
世界大戦時の土方中尉の直属の上官。
米内光政大佐(1880年生)海軍兵学校29期生
海兵隊創設以来最大の激戦となったヴェルダン要塞攻防戦時に、鈴木貫太郎第3海兵師団長(当時)が全幅の信頼を置いた参謀で、一時は海兵連隊長代理まで務めた。
鈴木貫太郎の引きで海兵本部に勤務している。
永野修身大佐(1880年生)海軍兵学校28期生
旅順要塞攻防戦時に28サンチ砲の射撃を担当する等、海兵隊きっての砲兵のエキスパート。
世界大戦時には当初から欧州にも派遣されており、一時は大田実大尉の上官を務めたこともある。
砲兵の先輩、黒井悌次郎の引きで軍令部に勤務している。
百武三郎少将(1872年生)海軍兵学校19期生
海兵本部次長を務める。
弟、源吾は海軍本体に、また一人の弟、晴吉は陸軍に所属している。
畑英太郎少将(1872年生)海軍兵学校19期生
軍令部第三局長(第三局は海兵隊担当)を務める。
弟が畑俊六陸軍中佐であることから、陸軍ともつながりがある。
土方勇志中将(1870年生)海軍兵学校18期生
土方歳三提督の長男で、日本初の戦車師団長を務めた経歴の持ち主。
横須賀海兵隊長官兼軍事参議官
岸三郎中将(1868年生)海軍兵学校17期生
島田魁の甥で、日本初の山岳師団長を務めた。
呉海兵隊長官兼軍事参議官
鈴木貫太郎中将(1868年生)海軍兵学校14期生
旅順要塞攻防戦時の陸軍に対する工兵の指導ぶりから、「鬼貫」の異名を持つ。
その後、海軍次官や第3海兵師団長を歴任し、何れでも辣腕を振るったことから、ますます「鬼貫」の名が高まり、現在、海兵本部長の要職に親補されている。
黒井悌次郎中将(1866年生)海軍兵学校13期生
日清戦争勃発時の朝鮮王宮制圧以来の戦歴を誇る。
日露戦争時も海兵師団参謀として出征し、世界大戦時も、欧州派遣軍参謀長、第2海兵師団長等の要職を歴任したこともあり、軍令部次長(海兵隊担当)に親補されている。
林忠崇元帥(1848年生)
海兵隊の長老として、半伝説的存在と化している名提督で侯爵。
戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争と前線経験を持ち、世界大戦時には、欧州派遣軍の総司令官や英仏日統合軍の総参謀長まで務めたが、今は楽隠居(元帥だが予備役編入済)し、貴族院議員を務めている。