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 それからの一週間を何気なく暮らした。

 もちろん仕事も家事も完璧にこなし、充実していた。

 だが、心にぽつりと空いた穴があった。そう、何かが物足りなかった。仕事場でも、家庭でも…。

 それは、片思いしていた頃の感情とは違う。

 だって、寂しくないし、悲しくもない。

 ただ、何かが足りなかった。

 それは輝きだろうか…。ずっと無くしていたことに気づかなかった、心の輝きなんじゃないだろうか?

 「京子、どうしたんだ?ボーとして…。俺が仕事に行ってしまうのが寂しかったりして」

 「な、何を言ってるの。さぁ、いってらっしゃい」

 土曜日の朝は、克巳だけが働きに行く。

 彼は中高校生の頃、遊んでばかりだったから、大企業には就職できず、中小企業の労働者として働いていた。工事現場が変わる度、生活のリズムも変わる。遠い現場なら、朝も早く出かけなければならない。毎日泥だらけになって働いている。

 疲れる、疲れると言いながらも、働きに行く彼を私は感心して見つめていた。

 昔の彼なら、地味でしんどいことはしなかっただろう。

 中学を卒業するとき克巳に、やくざから誘いがあった。楽ができるからと言って、彼もその道に進もうとしていた。今では、彼の友達も何人かは、暴力団とかやくざとか呼ばれる組織の幹部になりつつある。

 けれど、彼がそうならなかったのは、私の存在が大きかったと、彼は言ったことがある。

 私のために、まじめに働いてくれる彼を好きだった。

  安心できる彼を心から好きだった。

 なのになぜ?なぜ私は先輩を忘れることが出来ないの?こうしていても、会いたくて、会いたくて…心が張り裂けそうになる。

 会わなければ良かった?いいえ、そんなことは決して思わない。

 …姿を見たい。

 私は会いに行こうとしている。姿を見ようとしている。

 わかっている。昔には戻れないことを。

 今は、克巳の妻であることを。

 けれど、気持ちだけが、時間をさかのぼってゆく。

 あの青春時代に帰ってゆく。

 克巳…私を止めて。私をずっと縛り付けていて。この身が勝手に動き出さないように。この心が騒ぎださないように…ずっとそばにいて。

 そう頭で考えても、私は行くだろう。今週も先輩に会いに行くだろう。

 ただ、会いたい。


 「母さん…」

 私は、会いたい気持ちを抑えるために実家に帰った。

 実家に帰ると、気分が落ちつく。

 甘えさせてくれる人がいるという事が、どれ程心地よいものか離れてみて初めて気付いた。

 ただ、純粋に私を甘やかしてくれる。ただ、私の幸せを考えてくれる母。

 克巳とは違う、何とも言えない優しさが伝わる。心地よい安堵感。

 母の中でずっと暮らしたい。母に守られて、生きて行きたい。

 悲しいことがあると、母の胸の中で思いきり泣いていた。

 あの頃に帰りたい。

 もう、母の胸に泣きつくことは出来ない。今では、母の幸せを私も考えているから…。

 母の幸せは、きっと私が幸せになること。

 だから、泣き顔なんか見せることは出来ない。小さい頃のように泣きじゃくることは出来ない。

 あの頃に帰りたい…。

 最近よく思う言葉だということに気がついた。

 幸せな時間だったからこそ、帰りたいと思うのだ。今は?

 今は、数年後になって帰りたいと思えるような時を過ごしているだろうか?

 子供の頃に帰りたい。中学、高校生時代に帰りたい。

 今は幸せなんかじゃないんだろうか…。

 高校生時代には子供の頃に帰りたいと思っていた。

 やはり、いつの日か今の時が幸せに思える日が来るのだろうか…。

 今という時に不安を感じたが、母の前でそんな素振りは見せることは出来なかった。

 「京子、どうしたんだい、突然帰ってきて」

 「うん、何となく暇になったからさ…」

 「そんなこと言って、部屋の掃除は終わったの?まだ、お昼前よ?」

 「お昼御飯でも一緒に食べようと思って!」

 「お昼御飯食べたら、掃除しに帰るのよ、向こうの義母さんに悪いわ」

 何かと克巳のお母さんに気を使う母。

 「うん、来週は向こうのお母さんと食べるから気にしないで…」

 そう断って、私たちは昼食についた。

 二〇年間慣れた食卓で、母と二人きりで食事した。

 「京子…幸せかい?」

 「何よ、突然?」

 不意に話しかけてきた母に戸惑った。

 「うん?京子が幸せならいいなぁと思って。京子は母さんに似てるから、心配なんだよね」

 優しい微笑みを私に向けて話し続けた。

 「母さんね、思いこんだらとことんだからさぁ、好きな人が出来たら、まわりが見えなくなって、何でもしてしまうところがあるの。それで苦労したんだ」

 「知ってる、父さんに尽くしすぎるほど尽くして来たもんねぇ」

 「うん、ちょっと疲れちゃった。京子の幸せを犠牲にしてまで父さんに尽くしてきたような気がしてねぇ」

 「母さん…」

 小さい頃よく見た夢があった。

 父さんと、二人で遊んでたら、白い不気味な笑い顔の仮面をかぶった女の人が、父さんを自転車に乗せて父さんを連れて行く。私は、母さんを捜して叫んでも、誰も来なくて…仮面の女の人を追いかけた。その女の人が私を見て仮面をはずすと、母さんだった。そして、私を置いて、母さんは父さんだけを連れて消えていった。

 孤独感。

 夢の出来事とはいえ、幼い子供の頃には、耐えられない孤独感が私を襲っていた。

 それ程、私は母の愛に飢えていた。

 父ばかりを見ている母が恋しかった。父のわがままで苦労する母に、見つめて貰いたかった。

 今、やっと母が私を見てくれている。

 母さんが私のことを考えてくれる。

 「母さん」

 もう一度母の名を呼んだ。

 「母さん、私は幸せだよ。何があっても後悔しないように一生懸命生きているよ。もし、私が行方不明になったり、何かで死んじゃったりしても、きっと幸せだと思う。母さんだって、なんだかんだ言っても後悔はしていないでしょう?」

 「うん、そうだね、母さんも幸せだったよねぇ」

 その言葉で、私は目頭が熱くなった。

 母さんからその言葉が聞けて良かった。

 私もきっと幸せになれる様な気がした。母さんのように、きっと幸せに…。

 人からどんなに不幸に見えても、自分が幸せだったらいい。

 母さんの一生は、私から見て幸せだったとは思えない。けれど、母さんは幸せだと言った。

 その時は、ただ一生懸命で何も見えなくても、幸せだったと思える、帰りたいと思える時を過ごしたい。

 会いにいこう。後悔のないように。好きな人に会いに行こう…。


 桜の咲き乱れる墓地。

 惜しげもなく散る花びらが、潔くて美しく見えた。

 街を見下ろすように立ち並ぶ墓を通り過ぎ、元山家と書かれた墓前で、私は静かに立ち止まった。

 「雪枝…久しぶりだね」

 雪枝が逝ってから、六年近くの歳月が過ぎていた。

 雪枝が逝ったのも、まだ寒さの残る春だった。

 幸せだったと思えた?死の瞬間に幸せだったと感じた?

 高校一年の時を共にして、留年が決まったとき、あなたは悔しがっていたね…。学校をやめて…働くって言ってたよね。自由にしてたから、しんどかったでしょう?先生達を敵にして…自由を守り通して…苦しかったでしょう?みんながあなたを頼ってばかりで…本当は疲れたでしょう…?

 そんな素振りも見せないで、私を励ましてくれたよね…。

 でも、どうして最後に逃げてしまったの?

 どうして、シンナーなんか…。

 死にたかったの?むちゃな吸い方をして…もう疲れてしまってたの?

 どれ程、私があなたに憧れていたか…どれ程、あなたを好きだったか…。

 自由に生きるということを、あなたはみんなに見せてくれた。

 無理をしていたんじゃない?本当は苦しかったんだ。

 死んで楽になれた?戦うことが無くなって、守る自由が無くなって楽になれた?愛を知らないまま…人に頼ることを知らないまま…あなたは逝ってしまった。

 それは私に悲しみを与えた。

 私は最後まで戦って、あの頃は楽しかったね…と言って欲しかった。

 もう、私はあなたに頼らない。私があなたに頼って、あなたの自由が私のものだと感じていた。

 今度は、自分の力で頑張る。

 自由に、そして自分に正直になる。

 だから、見ていて。

 「私は強くなる」

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