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再会したのは、春の少しひんやりした空気の中。太陽が沈もうとする夕暮れ時。
激しい鼓動と、苦しいほどの熱い思いを体内に駆けめぐらし、私は愛する人と再会した。
再会しなければよかった。
少しの後悔と大きな喜びが、私の心を揺らした。
もう、気持ちは後戻りできないだろう。出会ってしまったら、それ以上を望んでしまうだろう。そして、涙で眠れぬ夜が続くのだろうか…。
「話ってなに?」
言ってしまった言葉に驚き戸惑っていた私は、つい話があると言ってしまったのだ。
そして、いま私達は、静かな茶店のテーブルを挟んでお茶を飲んでいた。
大きな窓ガラスの側にあるテーブル。室内を遮るように置かれた観葉植物。
ガラスの向こう側を通り過ぎる人は、異世界の人ように感じた。
二人だけの空間…。
激しい鼓動と共に時は過ぎる。大切な先輩との二人きりの時間が、静かに流れる。
何かはなさなくてはいけない…話さなければ、この世界が消えてしまう。
ああ、この時が永遠に続けばいいのに…。
「は…話ですよね…」
何を話せばいいだろう。心が焦った。
この目の前にいる人を、どんなに夢に見ただろう。
しかし、そんな私の気持ちを、知らない。きっと知らない。
眠れない夜があることも、離れていることが、悲しくて寂しくて、この世界に生きている意味さえないような孤独のなかで、泣いていることも知らない。
どうか、私のこの激しい恋心を知って欲しい。何も望まない。ただ、この心の熱さを知って欲しい。
そうでないと、あまりにもこの恋心が寂しすぎるから…。
私は、祈るように震える声を一言発した。
「好きだったんです」
ありったけの勇気を振り絞って私は言った。
この言葉が言えなくて、いつも回りくどい言い方になっていた。
プレゼントを渡したり、バレンタインにチョコレートを渡したり…今考えると、おままごとみたい…。
でも、気持ちは真剣だった。
今と変わらずに好きだった。ただ、気持ちばかりが溢れて言えなかった。
好きという言葉…。
今、やっと言えた…。
「うん、知ってる」
しかし、先輩の返事は淡々としていた。どれ程、勇気を出していったか、先輩はわかっていない。やっぱり、この人には伝わらない。
ああ、やっぱりという、諦めと共に不思議な安堵感が私の中に存在していた。
昔の私には考えられない姿と心だった。
先輩を目の前にしては、何も言えなくて、ただ涙が溢れるばかりだった。心が震えて、伝わらないことが、もどかしくて…。
私はこの時、大人になったんだと感じた。
「今はどうしているのですか?」
「なにが?」
「仕事とか・・ラグビーはもうやめたのですか?」
先輩は、少しの沈黙の後に、ガラスの向こうにある町並みを見つめた。
「まぁ、ラグビーなんて部活だったし」
それは嘘。すぐわかってしまうような嘘。
あんなに好きだったのに…。卒業して、どんなに仕事が忙しくても、暇を見つけてラグビー部を見に来てくれた。どんなに時間をさいても、どんなに練習がきつくても、笑って練習に通ってた。
一番はじめの就職先を辞めたのも、ラグビーのため。三交代制の仕事では、ラグビーの練習が出来ないと言って辞めた噂は、私でも知っている。
ラグビーをしていた頃の輝いていた瞳を、知ってるのだから…すぐ嘘だとわかるのだから…。
だから、そんな疲れた瞳をしないで…。輝いていた頃を思い出して欲しい。
「そんな…あんなにラグビーが好きだったじゃないですか…」
「好きなだけじゃ…やっていけないこともある…」
先輩は遠くを見つめていた。
あの時を思い出すかのように…遠い瞳。
高校時代最後の試合…。この試合で勝てば、全国でベスト4になり、実業団からのスカウトの話が本決まりになるはずだった。
前半立ち上がりの悪いチームだったが、後半の追い上げで先輩のトライが決まり、一点差になった。勝てると思った。時間も迫り先
輩のキックが決まれば───。
最後の審判のホイッスルが聞こえたとき、ボールはゴールを反れていた。
この試合で、スカウトの話は相手チームの選手に決まった。
それでも、先輩は実業団への夢を諦めていなかったのに…。
「もう、諦めてしまったのですか?」
先輩は答えなかった。
「君は?結婚したんだって?なんか噂で聞いたけど」
知っていたんだ…。
妙な安堵感が再び蘇る。
高校の頃、ラグビー部マネージャーとして、生徒会長として、私は何かと有名人だったから、耳に入ったのだろう。
ラグビー部のために、そして宮下先輩のために生徒会に入って予算を上げて…。
全てが、輝いていた先輩のため。輝いている先輩がいた青春時代は、私の自慢だった。
先輩に結婚のことを言われると、全てがなくなってしまうような気がした。今までの私の心が全てなかったような気がした。
でも、これが現実。知っていた方が良かったのだ。私が馬鹿な行動に走り出さないためには、結婚していることを知られている方がいいのだ。
「ええ、結婚はしました。二番目に好きな人と…。その方が幸せになれるって言うでしょう。だから先輩を諦めたんです」
長い沈黙。
私が長く感じただけなのだろうか、何事もなかったように先輩は話しだした。
「俺なんかは、やめて正解だね。軟派でわがままで、定職もつかないでフラフラしてるし…」
苦笑する先輩を見た。
けれど、そんな先輩を気にしなかった。
「でも、好きでした」
私は、強く言い切った。
もう、望みがないから、だから自信を持って告白することが出来た。
断られるという不安がないから、思い切って言うことが出来た。
「なんか、変わったね。今では君の方が大人みたいだな」
違う、もう望みがないから。だから…、だから言えただけ。
心は今でも、何も変わってない。
今でも、あの頃に帰りたいと思ってる。先輩だけを見つめていた、苦しくて、寂しくて…けれども、輝いていたあの時に、帰りたいと思ってる。
「…そんなことないです」
再び訪れた沈黙は、長かった。
先輩は、もう日が落ちて、ネオンが光る街を眺めていた。
そして私は、遠い目をした先輩の横顔を見つめていた。
ガラスの向こう側に何を求めているのだろうか?輝いていた瞳は、何を求めているのだろうか?
意志の強い瞳は変わらない。でも、その強い意志が、心が、どこに向ければいいか判らないような…そんな瞳のような気がした。
「話がそれだけなら、もう帰るよ」
行かないで、そう叫びたかった。
でも、この空間に、この沈黙に耐えきれないように去ろうとする彼には、言えなかった。
「また、また逢ってください」
勇気を出して言った言葉は、その一言だった。
「別にいいよ、電話してきて」
少しの戸惑いの後、軽い口調で私に言い残し、茶店を出ていった。
私はたまらない幸福感で、心が満たされた。
別に社交辞令であることは、悲しいほど知っている。
けれど、また逢える事が嬉しくて…。嬉しく思ってはいけない事もわかっている。
しかし、気持ちは抑えきれないほど膨らんで、輝き始めてしまったのだ。
不倫とか、浮気じゃない。まして、浮ついた気持ちでなんかじゃない。
克巳のことも、愛している。二年間も共に暮らしてきたのだから…。初恋の人だもの。淡い思いを寄せていた克巳だもの。確かに愛していると思う。
でも、この気持ちは抑えられない。ただ、愛しくて。見返りとか、暖かさとか、全く関係なくて…。ただ、好きなだけ。逢いたいだけ。そして、知りたいだけ…。
克巳のことは全てわかっているから、安心できて、気を使わなくてもいい。
でも、どんなに悲しくても、どんなに傷ついても、あの人が好き。
一人残されたテーブルで、悲しいような、嬉しいような感情が心を支配していた。
この場所から離れると、逢っていたことが夢の様な気がするのが怖くて、離れられなくなっていた。
そう、ここを離れると、克巳の奥さんという現実が待っている。
夢…。先輩とのことは夢なのかもしれない。
いいえ、先ほどまで、この場所で、確かに会っていたのだ…。この目の前の席で、窓の外を見つめていた。夢じゃない…。
何度も考えたが、夢と現実の狭間で収拾のつかなくなってきた気持ちを抱え、私は克巳の元へ帰ろうとしていた。
もう、時間も八時を回っていた。帰ってご飯の支度をしなくてはいけない…。
だんだんと現実の生活の中に戻ってゆく。