ハガキ
郵便受けを開けると、一枚のハガキが届けられていた。
宅配ピザや地域バザーのチラシに紛れて、ステンレス製ポストの底に貼りつくように入っていたそれを、どうせドラッグストアの割引ハガキだろうと無造作に手に取り……
「なんだこれ。子どもの字か?」
思わず独り言が口をついて出た。
惰性のままに玄関の鍵を開けようとしていた動きが途中で萎え消える。
――通信面を埋め尽くす、いびつな文字。
みて、お手がみ かけるようになったよ。
つぎは きみの名まえ れんしゅうするね。
けしゴムつかわなくても
たいじょうぶになるまで。
筆跡からして芯の細いボールペンで書かれたらしいが、その筆圧が妙に強い。反対側まで文字の跡が浮き出てしまっている。
宛名面には、まったく見覚えのない男の氏名が記されていた。
差出人の記名はない。
ただ同じ筆跡で篤志の住むアパートの所在地が綴られている。
○○市××102-9
シライハイム 205号室
篤志の部屋はシライハイムの105号室だ。つまりこのハガキは真上の住人宛ての郵便物ということになる。
配達員のミスか。そう結論した篤志は、仕方なしにアパートの階段を上がり、本来の受取人宅の郵便受けへとハガキを滑り込ませた。
ふっと疑問が兆す。――そういえば、いつの間に新しい人が入ってきたんだろう。
前の住人である若い女性が引っ越して行ってから半年以上経つ。
地方都市のワンルームアパートとあって、入居や転居に際して隣人に挨拶する習慣は特にないが、それらしき人物を見た覚えはなかった。
205号室は暗く静まり返っている。
小窓からわずかに垣間見えたステンレスの箱の中は、色とりどりのチラシがたくさん溜まっているようだった。
*
再びハガキが届いたのは二週間後のことである。
すっかり忘れかけていた篤志は玄関先で顔をしかめ、念のため宛名を確認する。
やはり205号室宛てだ。同じように強い筆圧で、前回よりも少し太いペンで文字が書き込まれている。
にがおえ かいてるよ。
がようしもらったから
さっきから かいてるけど
なかなかできない。
いろぬりたいへん。
なんだか気味が悪いな、と思った。
この差出人の子は205号室の男と一体どんな関係なのだろうか。
またしても上階の郵便受けにハガキを入れながら、相変わらず姿が見えず物音ひとつ立てない、存在感のない住人のことを考えた。
共用階段の蛍光灯が不意にまたたく。篤志の足元をかすめ、大きな蛾が慌てて逃げていった。
*
郵便局に苦情を入れよう。
さすがに四度目の配達間違いはひどすぎる。仏の顔も三度まで、だ。
あれから一週間後に一通、さらにその三日後である今日にまた一通。205号室宛てのハガキが立て続けに篤志のもとへと舞い込んできた。
いいかげん奇妙なメッセージを見るのに嫌気がさしてきたところである。
他愛のない短い文面。不自然に歪んだ大きな文字が、回数を重ねるごとに太さを増していく。
どことなく薄気味が悪い。
階段の灯りがちらちらと明滅して苛立ちを煽り、篤志はやや乱暴にハガキを郵便受けへ投げ込んだ。
細かい埃が散る。
夜九時だというのに、相も変わらず人の気配が感じられない205号室。
――もしかして、いたずら?
ベッドに寝転びながら、その可能性は高いかもしれない、と考える。
天井を見上げずにはいられなかった。
いつも宛先に記されている『仁井 達樹』という名前。
仁井という人物は、ほんとうに実在するのだろうか。
胸の奥を冷たい手に撫でられたような気がして、篤志は努めて天井から目をそらした。
苦情の電話をかけよう。明日必ず。
*
絶句する。
通信面にはわずか六文字しか綴られていなかった。
あいにいくよ
明らかに異様だった。
極太の油性マジックで、力任せに書き殴ったとしてもこうはなるまい。
触りたくない。反射的にそう感じた。
とはいえ自分の郵便受けにこのハガキが存在するのも同じくらい耐えがたい。
昨日の今日で、五通目である。配達員のずさんさに腹を立てるよりも先に、気味の悪さが一挙に神経をささくれ立たせる。
まるで底の見えない川に手を差し入れているかのようだ。
得体の知れない不気味さ。
205号室。
特徴のない官製ハガキ――。
篤志は息を呑んで立ち竦んだ。
……ない。
ない。
消 印 が な い 。
手に震えが走った。
押し殺した悲鳴が喉の奥でひしゃげる。
どうして。
なんだこれは。
違う。
俺宛てじゃないのに。
呆然とする篤志の背後で、不意に砂利が音を立てた。
ゆっくりと近づいてくる足音。
何かの気配。
身体が動かない。
意味が分からない。
思考が痺れる。
忍び寄ってくる。
少しずつ、確実に。
振り返ってはいけない。
直感的に悟った篤志は、為すすべもなく、ただ立ち尽くす。
END
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