別れさせ屋3
ゲンさんが事務所にやって来たのは、時計の短針と長針が仲良く十二を指している時間だった。沈黙を破ってくれたのはいいが、本当に午前中は苦手の様だ。ゲンさんは頭をぼりぼりと掻きながら事務所のドアを開ける。
「ふぁあ。眠てーな。朝はだりーなー」
「ゲンさん、依頼者さんです。お話、聞いて下さい」
「ん? ああ、そーね。依頼、依頼」
ゲンさんは自分の椅子に腰掛け、昨日の様にナイキマークを作る。雑誌を顔にかけてはいなかったが。
「おじょーさん、こんにちは。探偵の原本です。依頼、と言う事ですがぁ……別れさせたいの?」
今まで口を開かなかった女性、『サハラショウコ』は遠慮がちに話始めた。
「はい、ある女を騙して欲しいのです……」
「というと?」
俺は思わず訊いてしまった。女性は意を決したように真っ直ぐ俺を見ながら、迷う事なく言った。
「はい、ある女の人生をめちゃくちゃにしたいのです。あっ、申し遅れました。私、佐原しょうこと言います」
肝の座った彼女の言葉に、俺は返す言葉が見つからない。助けを求めるようにゲンさんの方を見る。
「金は、どの位積めるんだい? おじょーさん」
「即金で、百万程……です」
「ひゃ、ひゃくまんえん!?」
俺は額の大きさに驚き、椅子から立ち上がってしまっていた。ゲンさんは相変わらずの姿勢のまま、天井を見上げる。
「ふーん」
気の抜けそうな言葉を天井に投げかけた後、ゲンさんは佐原さんを睨みつけながら言う。
「舐めんなよ」
ゲンさんの言葉に事務所内が凍りつく。肉食獣に睨まれた草食動物の様に、俺と佐原さんの身体が萎縮してしまう。
「人一人の人生をめちゃくちゃにしたいんだろ? そりゃ、百万じゃ安過ぎだ。分かるか? おじょーさん、人生を壊す為に積む金は最低『億』からだ。あんたは俺たちに人殺しを百万で頼んでんのと同じだ。わかるな?」
佐原さんは怯えながらコクリと頷く。それを見たゲンさんは、「しかし……」と言って佐原さんに提案した。
「『別れさせる』って事なら、大まけにまけて百万で了承しよーじゃねーか」
「ほ、本当ですか?」
佐原さんは顔を上げてゲンさんに向き合った。彼女の目には涙が溜まっていたのか、きらきらと輝きを放っていた。
「ああ、そこの男が解決してくれる筈だ。名前は『ルキ』ってんだ。よろしくしてやってくれ」
ゲンさんはそう言って、雑誌を顔の上に乗せる。相変わらずナイキマークの姿勢のままだった。ゲンさんは雑誌の下で笑っていた。
俺の初仕事はあるカップルを別れさせることとなった。まずは下調べだが、さてどうしたものか。
佐原さんが帰った後、俺は佐原さんに訊いたターゲットの情報を一通りメモした紙を見ながら、大きく伸びをした。
「まずは出会わなければ始まらないよな……」
ゲンさんは何も言うことなく大きな寝息を立てていた。とりあえず、動かなければ始まらない。
「じゃあ、少し出てきます」
そう言って俺は上着を羽織り、静かに事務所を出た。
ターゲットの名前は『三戸英子』。この町にある『パラソル出版社』に勤めているという話だ。歳は俺より二つ下、二十七歳ということだった。外見は詳しくは分からない。自分で確認して、接近した方が効率がいい。時刻は六時過ぎ、俺は出版社の向かいにある喫茶店でコーヒーを飲みながらそれらしき人物の出入りを調査する。
この会社の定時は何時だろう? と考えていると出版社の自動ドアがゆっくりと開く。髪の長い女性が一人、建物から出てきた。一口しか飲んでいないコーヒーの代金を支払い、俺はその女性に話しかけるため外に出る。信号は丁度赤から青に変わっていた。幸運だ。俺は彼女に後ろから声をかけた。
「もし、ちょっと聞きたいのですが……。よろしいですか?」
「はい、なんでしょうか?」
その女性は髪を暗い茶色に染めていた。艶のある髪に夕陽が映ってしまいそうだ。振り向いた彼女の顔は「美しい」と形容するに相応しい顔立ちだった。
俺は少し緊張しながら、『三戸英子』についての情報を探る。
「あの、パラソル出版社の方ですよね? 三戸さんという方に用事があるのですが、まだ社内に居ますかね?」
「三戸は私ですが、どなたですか? あなた」
え? この人が……。『三戸英子』? まずい! それらしいこと言って誤魔化さないと!
「あの、げ、原稿……。そう! 原稿の持ち込みです!」
少し無理があるか? 三戸英子は明らかに訝しんでいる。
「あの……。私は主にレイアウトの方の担当なので、持ち込まれても……」
「ああ、そうでしたか! 失礼しましたー!」
俺はそう言って、逃げるように走り去った。どうしよう、仕事をいきなりミスしてしまった。俺はゲンさんに怒られること覚悟で事務所に戻った。
「で? どうしたって?」
ナイキマークのまま耳掃除をしながら、ゲンさんは言った。
「ですから、出版社から出てきた女性に『三戸英子』の情報を訊こうとしたらその女性が『三戸英子』だったんですよ! 本当にスミマセン!」
「なぜ謝る? ナイスなコンタクトの取り方じゃねーか。まだ大丈夫だ。失敗ってのは俺たちが『別れさせよう』としてることがバレた時に口にしな。おっ? 大漁だ」
右耳から発掘された大きな耳垢を床に落とし、耳かきを持ち替えて左耳を掃除し始める。耳掃除の手を休めずに、ゲンさんは続けて言う。
「まあ、ルキが不安だって言うなら一緒に行動してやらんこともない」
「お願いします! 分からないことが多すぎてもうパンクしそうですよ」
「不器用な奴だなー。まあ、初めてはそんなもんか。よっし! じゃあ、給料は少し減っちまうがこの俺が中心になって、サクッと依頼を解決してやろう! いっしっし」
軽快に笑うゲンさんの白い歯がキラリと光る。