骨折アルバイト2
総合医療研究センターは、この地区には珍しいほどの大きな建物であるが、事実何を行っているかは常人には知りえない非常にミステリアスな場所である。
郁男は病院独特のこもったアルコールの臭いに、苦虫を噛み潰したような顔で、受付へと向かう。
「あ、あの先ほど電話した戸松という者なんですが……バイトの件でーーーー」
受付にいる女性はセミロングの髪を綺麗にポニーテイルにしナースキャップをして、黒縁の大きなメガネをかけていた。長い睫は自前の物であろう。飾り気のない二重瞼と潤いのある唇の右下には黒子が、大人しい印象を受ける。
「トマツ様ですね。本日はありがとうございます。本日案内役を務めます。高屋です。少々お待ちください」
受付を他のスタッフに任せ、彼女は受付口から事務室を迂回し、郁男が待つ側へやってきた。
先ほど身に着けていたナースキャップは外し、白衣を着ている。右手には黒いバインダーを持っている。
「では参りましょうか」
郁男が案内されたのは、一階の非常出入口近くにある狭い診察室であった。様々な用紙が乱雑に捨てられているのを見て、郁男は嫌な気分になった。
医療機関って、もっと小綺麗にしているものではないだろうか。
「お待たせいたしました。改めまして、本日はご協力感謝いたします。総合医療研究センター研究員、高屋しのぶです。宜しくお願いします」
椅子に座っている状態で、高屋は深々とお辞儀をする。郁男もそれを見て深々とお辞儀を返す。
「では、今回のアルバイトの話をしましょう。今回、トマツ様に行っていただくのは『治験アルバイト』です。ご存知でしょうか?」
郁男は機会のようにスラスラと話す高屋の口元をただ見つめていた。質問に対して郁男は知っている事をぼんやりと述べた。
「治験、といいますと……。新薬の効果を測る為の人体実験、ですよね?」
高屋は表情を変える事なく、郁男の言葉に頷いた。
「その通り。そうです。貴方には我が研究の実験対象になっていただきたいのです」
郁男は訝しみながら、高屋に詳細を聞こうとしたが、高屋が郁男に構わず話を進めるので、黙っているしかなかった。
「実験対象、そう言いましたが……しっかりとした保険制度もとっております。万が一の事があれば、こちらで治療費を持ちます。ただ、確実な保障ができないゆえ、皆様には契約書にサインをいただくようになっております」
そう言って出された契約書には漢字とカタカナでいくつかの注意書きがあった。
郁男は憲法の条文を読んでいる気分にうんざりとし、それらを軽く読み飛ばした。
「ここにサインしたらいいのでしょうか?」
トントンと下線が引いてある箇所にボールペンの先を叩きながら、郁男は訊いた。
「ええ、そこです」
契約書にサインをし終え、高屋に少し待つ様にと言われ、小さな診察室で郁男は一人考えていた。
仕事の詳しい内容聞きそびれちゃったなあ。まあなんとかなるだろ。
郁男が呑気にそう考えていると、一人の看護師があり得ないテンションで診察室に入って来て、郁男に言った。
「お待たせ。じゃあ、はりきって行っちゃおーか!」
「…………」
看護師に案内されて辿り着いたのは、総合医療研究センターの地下一階。普通の病院なら霊安室などが設けてあるはずであるが、ここは違った。階段を降りて郁男はその地下一階の異様さに、何か嫌な予感を抱いた。
「はいはーい! じゃあ、この待合室で待っておいて~。トマツ様の席はあそこね」
そう言われて中にはいる郁男だが、足取りが重い。待合室には先客が二名いて、彼らの放つどす黒い感情が郁男の足に枷をしていたからだ。
何なんだ? この暗い人達。
そう思いながら、郁男は看護師の指差す『赤いシート』に腰掛けた。
「それじゃあ、逃げないで待っててね~」
何か話をした方がいいかな。まぁ、いいか。どうでも。
郁男は元来人目を気にする節があったのだが、大学卒業から二年間のニート生活を経験するうちに人目を気にしなくなっていた。
「兄さん、若いね」
そう話し掛けてきたのは身体の大きな男だった。丸々と太り、脂ぎった顔に大きなニキビがいくつかあった。雑に伸びた髪には目立つ程大きなフケが溜まっていた。
郁男は、言葉を発さずコクリと一つ頷き、その人から目線を切った。
大きな男は構わず続ける。
「僕は長田。いやぁ、君もこのアルバイトをしに来たのだろう? 儲かるとウワサだからねぇ。このバイトは……」
はち切れそうな頬を摩りながら、長田は話していた。
次に口を開いたのは郁男の右側に居た人物であった。痩せていて、組んでいる足がスラリと長い。蜘蛛みたいな人だと郁男は思った。
「契約書にサインしたろ? だったらもう、逃げられないぜ、兄さん。俺たちは違う『治験アルバイト』で来ているんだが、兄さんはヤバイな。赤シートは正直、何されるか分からねえ」
蜘蛛みたいな男は、けたけたと不気味に笑っていた。郁男はだんだんと焦りを隠せなくなる。自分の座っている赤シートに、どのような意味があるのか、全く想像出来なかったからだ。すると、長田が郁男の方に寄って来て、肩をぽんぽんと叩きながら慰めの言葉を口にした。
「怖がらせすぎでしょう。伊原氏。彼、見たところ二十代前半だぜぇ? バイトの前に怖がらせなくても……」
伊原は長田の言葉に、両手を大きく開いて反駁した。
「本当の事さ。俺たちはもう、人体実験用の人間。モルモット同様、色々な注射を打たれたり、薬を飲まされたり……」
そういったところで待合室のドアが勢いよく開き、ハイテンションの看護師が入ってきた。
「はーい。お待たせしましたぁ~。イハラ様とナガタ様ですねぇ! 案内いたしまぁす!」
長田は席を立ち、郁男に「頑張れよ」と一言言ってから、未だ席を立とうとしない伊原の腕を掴んで待合室を出ようとしていた。
「さぁさ、伊原氏。座っていてもどうにもなりません。行きましょう、行きましょう」
「ああ、分かっているさ。今立つ。分かっている、分かっているさ……」
伊原は気だるそうに席を立ち、郁男を横目で見ながら、ボソッと言った。
「無事でいろよ」
待合室に一人取り残された郁男は、沈み切った音の無い空間に漂う沈黙の五月蝿さに、不安な気持ちでいた。
落ち着かなくなった郁男は席を立ち、狭い待合室を何の目的もなく、ぐるぐると歩き始めた。
郁男は苛立ちとも、焦りとも、不安とも取れない気持ちを抱きながら、待合室の出入り口や、自分が座っていたシートを何度も確認してしまう。
「…………」
…………まだ、かな?
待合室に入ってもう二十分程が経過しているが、郁男の思いは違っていた。もうかれこれ一時間程待たされている様な気分だった。
そこから五分経過して、待合室の扉が開いた。ハイテンションの看護師が右手に黒いバインダーを持ち、待合室に入ってきた。
「お待たせいたしまーしたー! ではトマツ様、ご案内いたしますのでこちらへどーぞ」
ハイテンションの看護師は出入口を出たところでいきなりしゃがみ込み、郁男の右手首に赤いリストバンドをした。スパワールドなどでよく使われている様な、安っぽいポリエステル製のバンドであった。
「これをしてて下さいね。外すと契約違反になるので」
バンドをはめて、暗い廊下を二人で歩く。暗く長い廊下には等間隔で扉がある。扉の上には『実験室1』『実験室2』……といった様に番号が割り振られていた。
「しかし、お若いのに珍しいですねえ。お金がそんなに必要でしたか」
郁男は突然話しかけられた事に驚き、辺りを見回しながら看護師の質問に答えた。
「ええ? ああ……。まとまったお金があれば、毎日働かなくてもすみますから……」
「ふうん。そんなものですかねぇ」
『実験室6』の前についたところで、ハイテンションの看護師が重厚な扉をノックする。
「入りなさい」
そう答えたのは高屋の声である事は、郁男にも分かった。重たそうな扉を開けて中にはいると、そこには沢山の機械やコンピューターが並んでいた。コンピューターに向かってなにやら打ち込んでいる高屋がそこにはいた。
高屋は扉の方を向き、口元をほころばせながら郁男に言った。
「ようこそ。私の実験室へ」
目は、これっぽちも笑っていなかった。