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短編集

枕の夢

作者: 林 藤守

 見知らぬ女がいた。敷き詰めるように布団が並べられている十畳ほどの部屋の真ん中で、凛として座っていた。黒々とした瞳には、夏の甲虫の背を思い出させる妖しい輝きが備えられているものの、無機質な感情が映るばかりである。彼女は僕を見つめていた。その距離は枕一つ隔てたほど。瞬き一つせず、じっと僕を見つめている。生暖かい夜気を帯びている部屋の中とは対照的に、女はまるで草陰に隠れる沼のように静かであった。


 僕は身を乗り出してその瞳を覗き込んだ。女は微動だにしない。長い睫毛は淫蕩的に艶めいている。不思議と僕の姿は映ってはいなかった。可笑しなこともあるものだと、僕は、横から上から、様々な角度で瞳を探る。下から窺うように覗き込んだとき、何者かが、静かに僕を見つめているのが見えた。輪郭はぼやけていて、杳として正体は掴めぬ。しかし、人であった。僕ではない、哀しい佇まいの、痩身の男であった。


 「わっ」と声をあげて彼女から身を離し、二歩三歩と後ずさる。辺りを探っても、僕と彼女の他に姿は見つけられない。しかし、心なしか空気が濃くなったように思われ、僕はなんだか空恐ろしい心持になった。それを見透かしたように女は口を歪ませる。静けさが鳴るように耳を打った。歪んだ口元には嘲笑の色がありありと見て取れる。薄暗い電灯の下、女の顔だけがぼうっと浮いているようである。


 数分の後、僕は耐えきれなくなって、視線を女の体に落とした。藍色の薄着に緊く帯を締めているのか、体の線ははっきりと浮き出ている。何かの雑誌で見たような、痩せぎすと言っても差し支えのないその体は、二十代も半ばと見える顔つきと不調和を成している。ゴーギャンの描いた絵のように、彼女は不調和を用いることで調和を保っているようにさえ思われた。


 僕は胸元に目を移した。痛々しい程に浮き出ている鎖骨が、女の薄幸を連想させ、物悲しい。もし誰かが「彼女は捨てられたのだ」と言えば、僕は納得してしまうに違いなかった。袖から覗く手首は煌々とした照明の下で白く映え、そこに血管が青く浮き出ているのを見つけると、少しばかりの後ろめたさを覚えた。


 もう一度彼女の顔を見る。濡れたように艶やかな瞳は相も変わらず僕を見つめている。歪んだ口元はいつの間にか消えていて、新しい墓石のような、しんとした美しさだけが貼り付いている。彼女の前では胸に芽生えだした卑屈も赦されるように思えた。また同時に、彼女はきっと、僕の心から得体の知れぬ卑屈を誘い出すためにここにいるのではないだろうか、そんな穿った考えが僕の内で頭をもたげた。



 頭上の電球が音を立て、刹那の明暗を辺りに散らす。僕はようよう視線を逸らし、「ここはどこか」と呟いた。精一杯の抵抗であった。振り絞るような一言であった。卑屈に屈するのは女から逃げ出すような気がした。分水嶺は僅かに、僅かに傾いたのだ。


 彼女はただ一言「寝室ですわ」と言った。存外高い声であるが、その声色にはやはり、僕を宥めるような響きと、嘲笑うような響きとが含まれていた。


 今思えば、その一言は僕の心の内に一抹の、しかし粘気を持つ違和感を投じたのだろう。猜疑の花を咲かせるのに足るものであった。彼女は何かを隠している、そんな確信にも似た思いが生まれた。

 

 僕は彼女から目を離し、もう一度周囲を探る。窓のない部屋だったので、昼夜の判別は付けることが出来なかったが、きっと夜だろうと思われた。賑やかな空気の中に気だるさが混じっていたからだ。ふいに遠くで三味線の音が聞こえ、ぐらりと部屋が揺れた。遠くの戸から隙間風が吹き込んでくる。幽かな潮の匂いもする。ここは屋形船なのだろうか。彼女の方を見ると、あの青い血管はいつの間にか袖の中に隠れてしまっていた。


 しばらくすると僕の額から顎へ、すうっと一滴の汗が流れ、布団の上に滲み消えた。女はそれを見てくすりと笑った。静謐が少し賑やかになる。意外であった。汗は一滴、また一滴と垂れ落ちる。その度に笑みは広がる。女はどんどん空気に染まる。息をするたびに、賑やかな色は、女の内へ流れ込んでいくようだった。女はついにはくすくすと笑いだした。息を殺すように笑うところを見ると、きっと肺を患っているのだろうが、そんなことはお構いなしに、慣れたふうに、女は笑った。気付けばその声はもう、賑やかな色そのものになっていた。


 娘のような笑い方だな、と思った。人前で笑う事を恥じ入る様子もない。猜疑心はその声に毟り取られたらしい。僕の心はいつの間にか明るさに満ちていた。男は女に勝てぬのだなあと小さく呟き、汗をぬぐう。そして僕が「君の名前を教えてくれないか」と言うと、女は少し困った顔をして「いやだわ。ご存じでしょう?」と言った。


 そうだったかな、と思った。そう言われれば知っている気もした。それも、随分と昔から。目の前にいる女の事ばかり考えていたような気がした。いや、きっと考えていたのだろう。僕は急にこの女が愛しくなった。母を愛するように、生まれたときからずっと、彼女を愛していたような気がした。

「私がここにいる理由だってほら、あなたは解っているはずですよ」

「そうかな、なんだろうな」 

「私がお風呂に入ったんですよ、だから、ほら」

 言い終わるや否や、涼やかな匂いが香ってきた。湯で身を清めた女性特有の可憐な匂い。肌艶もつるりと煌めきだした。薄着の中に滑らかな肢体が隠されていることに疑いの余地はなかった。僕はごくりと唾を呑む。いつの間にか辺りはやけにしんとしているから、その音が部屋の中に大きく響いて少し照れくさくなる。彼女はそんな僕を愛おしそうに見つめている。

「ほら、貴方はもう、ご存知ですよ」


 僕はするすると理解した。こんなに布団が敷き詰められている場所に彼女と二人でいる理由と、彼女が僕を見つめている理由を、いっぺんに。彼女は僕と夜を共にするつもりなのだ。僕は彼女の顔を見る。彼女は口元だけで笑った。その顔から恥じらいの類を読み取ることは出来ない。ふいに、そう思っている自分が急に馬鹿馬鹿しくなる。当然だ。恥じらうだなんて、そんなこと。当然じゃないか、当然なんだ。


「そうですよ。なんにも恥ずかしがる事なんてないんですよ」

 瞳は官能を孕んでいる。僕は彼女の方へ近寄る。互いの膝小僧が触れるほどの距離になる。その表情は崩れない。香りはどんどん強まる。眩暈を起こすかと思うほどに。僕はゆっくりと白い手首を握ろうとした。……



 ――突然、電灯が消える。空気はたちまちに冷え滞る。暗闇の中で、僕は彼女に触れた。ぐにゃりとした感触に僕はまた声をあげた。それは確かに手であった。しかし、彼女の手ではなかった。ぶよついた、ぬるりとする何者かの手であった。


 数秒の後に、どこから取りだしたのか、彼女は白い蝋燭を一つぽうっと灯した。慌てて見れば、彼女は暗転する前と変わらぬまま、凛として坐している。ならば先程触れたあの手は、誰のものだったのか。知っているような気がした。しかし思い出してはいけないような気もする。彼女は僕を見つめている。聞けば彼女は何と答えるだろうか。知りたくない。ことり、と蝋燭が横に置かれた。澄ました彼女の顔に、陰影が描かれる。火の光に照らされた半身は、淡い橙色に染まり更に艶を増したように思われる。掌が汗でにちゃりとした。彼女はいよいよ成熟しているように思われた。


「おいで」

 彼女が言ったらしい。もしかしたら、僕が言ったのかもしれない。わからない。もうどちらでも良かった。僕は唇に手を伸ばす。指先は肉に沈んだ。蝋燭は消えない。彼女は帯を解いた。藤のような可愛らしい匂いがふわりと広がる。僕らは夢中で布団の上に転がりこんだ。可憐な体臭が何かを頭の中にちらつかせる。何だったか。馬乗りになって接吻して、僕は気付く。かがり火に照らされた瞳の中で、誰かがこちらを覗き見ている。あのおぞましい手の持ち主か。構いやしない。誰が見ていたって止められる訳がない。振り払うようにして、情欲をかき消すようにして、僕は彼女に口付けた。


「眼鏡は、お外しになったら?」

 女は泣くような声で言った。眼鏡、眼鏡か。僕は眼鏡をかけていたのか。顔に手をやると、なるほど、小さな眼鏡がそこにはあった。かなぐり捨てて、また彼女を貪ろうとする。白い肌に舌を這わせる。愛しているのだ、愛していたのだ。ずっと、ずっと愛していたのだ。頭の中にはもうその言葉ばかりである。

「見えなくなれば、あるもないも一緒ですものね」

 そのとき僕は、どんな顔をしていたのだろうか。何か叫んだ気もする。その一連の出来事は、霞がかかるがごとく杳として思い出せぬ。彼女は情事に耽る僕を突き飛ばし、瞬く間にその体を枕の中へと隠してしまった。白い手足は器用に折りたたまれ、するすると入ってしまったのだ。まるで、最初からそうあったかのように。


 彼女は黒髪だけを残して枕の中で笑った。間違いなく、嘲っていた。僕はどうにかして引きずり出そうとその髪を掴もうとする。しかし触れはすれども、掴む事が出来ない。黒髪は指の間から滑りぬけていく。まるで湯を掴もうとしているような心地さえする。あれよあれよと言う間に、ついに彼女は余すところなく枕の中に身を隠してしまった。


 僕は枕を抱きかかえる。彼女は静かな声で、「逃げる女すら捕まえられないなんて、なんてみっともない男なんでしょう」と僕を馬鹿にする。涙が流れた。枕の上に滲みが出来る。今度は笑ってもらえない。彼女は続ける。

「私の顔も覚えていないなんて、薄情な人」

 笑ってほしい。滲みが、ほら、枕の上に。とめどなく涙は溢れる。僕は彼女に振り向いて欲しくてたまらなくなる。

「昔はあんなに愛し合ったのに」

「私は貴方の事、忘れた事なんてないわよ。ただの一度もよ」

「浮気はしたわ、でも先にしたのは貴方よ」

「いつだって傍にいるわ。どんなときだってね。そうよ、貴方が別の女を抱いているときだって」

 声は四方から聞こえた。立ち上がろうとして、僕は蝋燭を消してしまう。眼前ですすり泣く声が聞こえる。おののく間に、また蝋燭が灯る。炎の色はやけに赤い。舌が渇く。肌がピリピリする。枕は身投げしたかのように濡れている。耳元で、声がした。


「自分ばかりな人。何もかも手元に置いておきたいんだわ。嫉妬深いわ、女々しいわ」

 そうだ、僕は殺したのだ。13年前の今日、殺したのだ。気が狂って。風呂に沈めたのだ。もがく頭を、押さえつけて。

「ああ、こんな人。好きになんて、ならなきゃ良かった」

 枕から醜い手が二つ、ぐにゃりとした、ぬるぬるとした真っ白な手が二つ、にゅっと伸びて、僕の首を絞めあげた。

  

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― 新着の感想 ―
[一言] 初めまして、舞月と申します。 枕の夢、読了しました。 林藤さんの短編の中で、この作品が一番輝きを見せているように思えました。殺してしまった女が狂ってしまうほど愛しくて、そして、彼女が目の前…
2012/07/11 22:11 退会済み
管理
[一言] 官能的というんでしょうか、艶かしくい文章で、読んでてドキドキしました。
2012/06/30 17:00 退会済み
管理
[良い点] 情景描写が深いねぇ・w・
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