婚約破棄されたその日、王国全土でインフラが停止しました。水道も照明も通信も、すべて私一人の魔力で動いていたのですが「去れ」と言われたので仕方ありません
王宮の大広間は、宝石箱をひっくり返したように煌びやかだった。天井から吊るされた無数の照明魔法が、淡い金色の光を放っている。その光に照らされたドレスの裾が、舞踏会に集まった貴族たちの足元で揺れていた。
マーガレット・ハドソンは、広間の隅で静かに立っていた。茶色の髪を簡素にまとめ、地味な灰色のドレスを着た彼女は、華やかな空間の中で目立たない存在だった。
「マーガレット、大丈夫?」
姉のキャサリンが、金色のドレスを翻して近づいてきた。社交界で「黄金の薔薇」と呼ばれる姉は、心配そうにマーガレットの顔を覗き込む。
「ええ、大丈夫よ」
マーガレットは小さく微笑んだ。姉の心配は嬉しかったが、きっと今夜で全てが終わる。それだけが心の支えだった。
音楽が止まった。ざわめきが静まり、人々の視線が一点に集まる。
王太子ハーレイ・フィッツロイが、壇上に立っていた。金髪を整え、紺色の礼服に身を包んだ王太子は、誰もが振り返る美貌の持ち主だ。その隣には、天使のような美しさを持つ金髪の女性が寄り添っている。
「本日は、星降りの舞踏会にご参加いただき、感謝する」
王太子の声が広間に響く。マーガレットは、自分の手が微かに震えていることに気づいた。疲れているのだ。今夜も、この舞踏会の後に地下の中央ノードへ行かなければならない。十五年間、一日も休まず続けてきた仕事が、今夜で最後になる。
「重大な発表がある」
王太子は、広間の隅にいるマーガレットを指差した。
「マーガレット・ハドソン公爵令嬢。前に出ろ」
視線が一斉にマーガレットに集中した。キャサリンが息を呑む音が聞こえる。彼女は群衆の間を縫って壇上へ向かう。貴族たちの視線が、好奇心と同情と嘲笑を入り交ぜて注がれる。
壇上に立つと、王太子が冷たい声で宣言した。
「私は本日をもって、マーガレット・ハドソンとの婚約を破棄する」
広間がどよめいた。マーガレットは表情を変えず、王太子を見つめた。
「理由を申し上げよう。彼女は地味で華やかさに欠け、王太子妃にふさわしくない。対して、こちらのセレナ・ブライトウェル嬢は、真の聖女として王国を導くにふさわしい存在だ」
王太子が隣の女性の肩を抱く。セレナと呼ばれた女性は、潤んだ青い目でマーガレットを見つめる。
マーガレットは、内心で小さくため息をついた。
やっと、終わった。
十五年間、毎晩二時間しか眠れなかった日々が、やっと終わる、と。
王太子との婚約が、彼女を王都に縛り付けていた鎖。その鎖が、たったいま断ち切られた。
「何か言うことはないか」
王太子が尋ねると、マーガレットは丁寧に礼をした。
「お幸せに」
その言葉は心からのものだった。幸せになってほしい。そして、自分のことに気づかないまま、ずっとそのままでいてほしい。
貴族たちの間から、嘲笑が漏れた。哀れな令嬢だ、という囁きが聞こえる。マーガレットは気にしなかった。彼らが何を思おうと、もうどうでもよかった。
「今すぐ王宮から去れ」
王太子の命令に、マーガレットは頷いた。壇上を降り、父のヘンリー・ハドソン公爵と姉のキャサリンに一礼する。父は複雑な表情でマーガレットを見つめ、姉は涙を浮かべていた。
大広間を出る直前、マーガレットは地下へ続く階段の方向を一瞬だけ見た。あそこには、王国の心臓部とも言える中央ノードがある。魔力を集積し、全国に配給するための装置だ。
もう、行かなくていい。
その安堵感がマーガレットの足を軽くした。扉に手をかけた時、ふと視線を感じて振り返る。壇上の脇に立つ、第二王子ジョナサン。彼は心配そうな表情でマーガレットを見つめていた。
マーガレットは小さく会釈すると、広間をそっと後にした。
*
王宮の地下、魔導技術局の作業室は、薄暗い照明魔法に照らされていた。深夜一時を過ぎても、技術局長のジェイコブ・スターリングは机に向かっていた。
小柄な身体を丸めて、ジェイコブは古い設計図を睨んでいる。丸眼鏡の奥の目は、疲労で充血していた。
「……今日も正常か」
壁に取り付けられた魔力測定器を確認する。針は安定した値を示していた。エルドリア王国全土に張り巡らされた魔力伝導網、通称エーテルグリッドへの魔力供給は、今夜も問題なく行われている。
しかし、ジェイコブには分からないことがあった。
目の前の設計図は、百五十年前に建造された古代魔導炉のものだ。魔力を自動生成し、王国全土に供給する、人類史上最大の魔導装置。理論上は、千年間稼働し続けるはずだった。
だが、この魔導炉は五十年前に停止しているのだ。
それなのに魔力供給が行われている。
ジェイコブは、三十年前に技術局に入局して以来、この謎を追い続けてきた。魔導炉は動いていない。それは間違いない。実際に炉心を確認したことが何度もある。
では、なぜ魔力供給は続いているのか。
「局長、まだ起きてらっしゃったんですか」
若い部下が湯気の立つ茶を持ってきた。ジェイコブは礼を言って受け取る。
「今夜の王宮は、随分と騒がしかったようですね」
「ああ、星降りの舞踏会だからな」
ジェイコブは茶を啜った。部下が遠慮がちに続ける。
「それが、その……王太子殿下が、公爵令嬢との婚約を破棄されたそうで」
「婚約破棄?」
「ええ。ハドソン公爵家の次女、マーガレット様との婚約を」
茶を飲む手が止まった。
ハドソン公爵家。魔導技術の名門中の名門だ。十年前に亡くなった公爵夫人、エリザベス・ハドソンは、ジェイコブの同僚であり、天才的な魔導技師だった。彼女の死は、王国の技術界にとって大きな損失だった。
彼女の次女がマーガレット。
ジェイコブは胸の奥に妙な胸騒ぎを覚えた。何かが引っかかる。
「当番の全員に伝えろ。今夜の魔力供給状況を、いつもより詳細に記録しておくように」
「は、はい」
部下が慌てて出ていく。ジェイコブは再び設計図に目を落とした。
エリザベス。もし君が生きていたら、この謎は解けただろうか。
測定器の針は、今宵も変わらず安定していた。
*
翌朝、王太子ハーレイ・フィッツロイは、上機嫌で目を覚ました。
絹のシーツから身体を起こし、大きく伸びをする。昨夜の舞踏会は完璧だった。あの地味な婚約者を追い払い、美しいセレナを新たな婚約者として迎える。誰もが羨む展開だ。
セレナこそが、俺にふさわしい。
彼は寝室の奥にある洗面室へと足を運んだ。魔法で温められた水で顔を洗い、一日を始める。それが、王族の朝の習慣だった。
洗面台の蛇口に手を伸ばす。
水が出ない。
ハーレイは首を傾げた。蛇口を何度かひねってみるが、一滴も水が出てこない。
「おい、誰かいないのか」
寝室に向かって声をかけると、侍従が慌てて駆け込んできた。
「殿下、申し訳ございません。水道が、その……」
「水道がどうした」
「止まっているようなのです」
「止まっている? 故障か?」
ハーレイは苛立ちを覚えた。こんな日に限って。早く直させなければならない。
「それが、王宮全体で水が出ておりません」
「なに?」
寝室の照明魔法も、よく見れば消えている。朝の光が差し込んでいて気づかなかっただけだ。暖房魔法も動いていない。部屋が妙に冷える理由はそれか。
「どういうことだ」
ハーレイが礼服を身につけて廊下に出ると、王宮中が騒然としていた。侍女たちが右往左往し、貴族たちが困惑した表情で廊下に集まっている。
「殿下、技術局へ」
侍従に急かされ、ハーレイは地下の魔導技術局へ向かった。局の前には、既に多くの貴族や官僚が集まっている。
「何をしている! 早く直せ!」
ハーレイが怒鳴ると、技術者たちが青ざめた顔で頭を下げた。その中心に、小柄な男が立っている。技術局長のジェイコブだ。
「殿下、申し訳ございません。原因を調査中です」
「原因? そんなものはどうでもいい。いつ直るのだ」
「それが……」
ジェイコブの額に汗が浮かんでいる。
「すべてのノードへの魔力供給が、停止しております」
「ノード?」
ハーレイは、技術的な用語が苦手だった。そもそも、そういったことは下々の者たちに任せておけばよい。
「魔力の集積点です。そこから各地に魔力が配給されます。水道、照明、暖房、通信、交通……すべての魔導装置がノードからの魔力供給で動いています」
「それが止まっているのか」
「はい。正確には、魔力の供給源そのものが……消失しております」
ハーレイは、その言葉の意味が理解できなかった。供給源が消失? そんなことがあり得るのか。
「古代魔導炉が壊れたのか」
「いえ、魔導炉は……」
ジェイコブが言い淀む。その背後で、セレナ・ブライトウェルが姿を現した。金髪を美しく結い上げ、清楚な白いドレスを着た彼女は光の化身のようだった。
「私の魔法で、何とかできるかもしれません」
セレナの申し出に、ハーレイは希望を見出した。そうだ、セレナは聖女なのだ。彼女の魔法なら、この事態を解決できる。
「頼む、セレナ」
しかし、セレナが魔法を試みても、何も起こらなかった。彼女の手から放たれた光は、花火のように散って消えるだけだ。ノードへの魔力供給には、何の影響も与えない。
セレナは困惑した表情で、ハーレイを見上げた。
こんな日に限って。
ハーレイは、苛立ちを押し殺した。これは技術者たちの怠慢だ。早く直させなければならない。
*
ハドソン公爵邸の書斎で、ヘンリー・ハドソン公爵は古い日記を手に取っていた。
革装丁の日記は、十年前に亡くなった妻、エリザベスが遺したものだ。ヘンリーは妻の死後も、この日記を何度も読み返してきた。
ページを捲る。妻の几帳面な筆跡が、魔導技術の研究記録を綴っている。その中に、こんな一節があった。
――もし私が死んだら、マーガレットが役割を継ぐわ。
ヘンリーの目に、涙が滲んだ。
――あの子は優しすぎる。誰も気づかないまま、王国を支え続ける。
書斎の扉が、控えめにノックされた。
「失礼いたします、閣下」
執事が入ってくる。ヘンリーは日記を閉じ、涙を拭った。
「王都が大変な騒ぎだそうです。水道も照明も、すべての魔導装置が停止していると」
「そうか」
ヘンリーは驚いた様子を見せなかった。むしろ彼は、この日が来ることをずっと待っていた。
娘を止められなかった自分を、ヘンリーは責め続けてきた。十五年前、まだ十歳だったマーガレットが、母の研究資料を読み漁り、地下の中央ノードへ通い始めた時から、ヘンリーは気づいていた。
古代魔導炉は、五十年前に停止している。それは、公表されていない国家機密だ。王国の威信のため、表向きは「自動稼働中」ということになっている。
だが、実際には誰かが魔力を供給し続けなければ、王国の魔導装置はすべて停止する。
その役割を、妻エリザベスが担っていた。そして、妻の死後、幼いマーガレットがその役割を引き継いだ。
ヘンリーは、娘を止めるべきだった。しかし、止められなかった。マーガレットは母のように責任感が強く、王国の崩壊を黙って見ていられる性格ではなかった。
そして、ヘンリー自身も、王国を崩壊させるわけにはいかなかった。
「やはり……」
ヘンリーは呟きながら立ち上がった。書斎の奥にある隠し金庫へ向かう。壁に埋め込まれた金庫の扉を開けると、中には羊皮紙の束が収められていた。
表紙には、こう書かれている。
――王国魔力供給システム再構築計画
ヘンリーは、この計画書を十五年かけて作り上げてきた。娘頼りではない、新しい魔力供給システムの設計図だ。百人の魔導師が協力すれば、一人の人間に依存せずとも王国を維持できる。
マーガレット。お前は十分に頑張った。
後は父さんが何とかする。
*
王宮地下の中央ノード室で、ジェイコブ・スターリングは必死に原因を探っていた。
巨大な球状の装置、中央ノードが、薄暗い部屋の中央に鎮座している。その周囲には、無数の魔力伝導網が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
ただし、そのすべてが沈黙している。
ジェイコブは昨夜の記録を詳細に分析していた。部下に命じて詳細な記録を取らせたことが役立っている。
記録によれば、魔力供給が停止したのは、深夜二時ちょうどだった。
深夜二時。
ジェイコブは、何かに気づいた。その時刻は、星降りの舞踏会が終わった時刻だ。
まさか。
ジェイコブは、過去三十年分の魔力供給記録を取り出す。膨大な量の記録を一つ一つ確認していく。
そして、驚くべき事実を発見した。
魔力供給のパターンが、十五年前から変化している。
それ以前は、供給される魔力の量や時間帯が不規則だった。しかし、十五年前を境に、供給は極めて規則的になっている。毎日、同じ時刻に、同じ量の魔力が供給されていた。
その変化が起きたのは、エリザベス・ハドソン公爵夫人が亡くなった直後だ。
ジェイコブの手が震えた。
規則的な供給パターン。それは、人間の生活リズムを示していた。
その人物は昨夜、王宮を去った。
ジェイコブは、一つの結論に達した。
一人の人間が十五年もの間、毎晩毎晩、王国全土への魔力供給を担っていた。しかしながらその人物は、もうここにはいない。
「ハドソン公爵邸に、至急連絡を取れ」
ジェイコブは、震える声で部下に命じた。
エリザベス。まさか、あなたの娘が……。
*
夕方六時、王宮の評議会室には、王国の重臣たちが集まっていた。
長いテーブルの上座に、ハーレイ王太子が座っている。その周囲には、各省の大臣、貴族の代表、そして軍の幹部が顔を揃えていた。
「状況を報告しろ」
ハーレイの命令に、各大臣が次々と報告する。
「王都全域で水道が停止しております。飲料水の確保が急務です」
「照明魔法の停止により、夜間の治安が悪化しております」
「暖房魔法が使えず、病院では老人や子供に死者が出始めています」
「通信魔法が停止し、各地の領主との連絡が取れません」
「交通魔法も停止しており、物資の輸送に支障が」
次々と報告される被害状況に、ハーレイは苛立ちを募らせた。
こんなはずではなかった。
昨夜の舞踏会は完璧だったのに。
セレナを婚約者として迎え、新しい時代を始めるはずだったのに。
「技術局は何をしている」
「それが……」
大臣の一人が、ジェイコブを促した。技術局長がふらりと立ち上がる。彼の目の下には濃い隈ができていた。
「ご報告申し上げます。魔力供給の停止原因が、判明いたしました」
室内が静まり返る。
「その前に一つ。古代魔導炉は、実は五十年前から停止しております」
貴族たちがざわめいた。ハーレイは眉をひそめる。
「何を言っている。魔導炉は稼働中のはずだ」
「それは表向きの話です。この件は、国王陛下を含めた、ごく少数しか知らない国家機密です。しかしながら、今回の異常を鑑み、陛下からこの場で発表し、対策を講じよ、との命を受けております。よろしいですか?」
ジェイコブは一同を見渡して続ける。
「魔力供給の停止原因について申し上げます。実際には、一人の人物によって魔力供給が維持されていました」
「一人の人物だと?」
「はい。その人物は、十五年間、一日も休まず、王国全土への魔力供給を担っていました」
ハーレイは、その言葉の意味を理解できなかった。一人で? 王国全土の魔力を? そんなことが可能なのか。
「その不届き者は誰だ。なぜ報告しなかった」
「恐らく、ご本人も黙っていたかったのでしょう」
ジェイコブは、ゆっくりと口を開いた。
「マーガレット・ハドソン公爵令嬢です」
室内が凍りつき、ハーレイの顔から血の気が引いた。
あの、地味女が?
嘘だ。そんなはずがない。あんな目立たない、華やかさのかけらもない女が、王国を支えていた、だと?
「昨晩、令嬢は王宮を去りました。それと同時に、魔力供給が停止したのです」
ジェイコブの言葉が評議会室に重く響いた。
ハーレイは言葉を失った。セレナが彼の袖を引っぱっていた。彼女もまた、青ざめた顔で震えていた。
*
それから五日が経った。
辺境の小さな村、ウィローズエンドで、マーガレット・ハドソンは朝の光を浴びて目を覚ました。
質素だが清潔な部屋。窓の外には、緑豊かな丘陵地帯が広がっている。小鳥のさえずりが、静かな朝を彩っていた。
ベッドから起き上がった。身体が軽い。十五年ぶりに、朝まで眠ることができた。
洗面台に向かうと、蛇口から清冽な水が流れ出る。この村の水道は完璧に機能していた。
この村のインフラは、マーガレット自身が五年かけて整備したもの。小規模な独立型魔力供給システムを構築し、王国の中央システムに依存しない仕組みを作り上げた。
いつか、この日が来ると分かっていた。
鏡に映る顔をじっと見つめる。疲れ果てていた顔色が、少しだけ血色を取り戻していた。
階段を降りると、村長が訪ねてきていた。
「おはようございます、マーガレット様」
「おはようございます」
村長は申し訳なさそうに続けた。
「王都から使者が参っております。お会いになりますか」
「会いません」
「分かりました。そのように伝えます」
村長が去った後、マーガレットは机の上に置かれた手紙に目を留めた。それは父ヘンリーからのものだ。
封を開けると、父の几帳面な字が目に入った。
――マーガレット。お前は十分に頑張った。もう休みなさい。後のことは、父さんに任せてくれ。
マーガレットの目に涙が滲んだ。
やっと、私の人生が取り戻せた。
*
それから五日後、王宮では事態がさらに悪化していた。
セレナ・ブライトウェルは、自室で一人、泣いていた。
水の供給は限定的に復旧したものの、照明も暖房も通信も、ほとんどが停止したままだ。王都は日に日に荒廃し、民衆の不満が高まっている。
王太子ハーレイは、日に日にセレナを責めるようになった。
「お前は聖女だろう。何とかしろ」
何度も、そう言われた。
しかし、セレナには何もできない。自分は聖女などではないからだ。
治癒魔法など使ったことがない。すべては偶然と演技だった。誰かが勝手に回復したのを、自分の魔法のおかげだと思い込ませただけだ。
セレナは机の引き出しから一通の手紙を取り出した。弟サミュエルからのものだ。
――姉さん、工場が止まって、僕はクビになった。父さんの借金も返せない。どうしたらいい?
家族を救いたかった。それだけだった。貧しい家に生まれ、美貌だけが唯一の武器だった。「聖女」という役を演じれば、貴族の世界に入れる。王太子妃になれば、家族を救える。
そう思っていた。
しかし、すべてが嘘だった。彼女には何の力もない。
そして、マーガレット・ハドソンの重要性を、セレナは最初から知っていた。
王太子との婚約を画策する中で、ハドソン公爵家を調べた。そこで、エリザベス公爵夫人の研究資料を目にした。魔力供給システムの秘密。そして、娘マーガレットがその役割を継いでいるという記録。
セレナはすべてを知った上で、マーガレットを追い出した。
王太子妃という地位に目がくらんでいた。
しかしながら、このままでは……。
「このままじゃだめ」
セレナは決心した。
自分の罪を告白し、マーガレットに謝罪しに行く。例え殺されても構わない。
マーガレット様。私はあなたに謝らなければならない。
*
五日後、王宮から一台の馬車が出発した。
馬車の中には、第二王子ジョナサン・フィッツロイが座っていた。金髪の青年は、病弱で青白い顔をしているが、その目には強い意志が宿っている。
ジョナサンは、まずハドソン公爵邸を訪れた。
書斎に通されると、ヘンリー・ハドソン公爵が待っていた。
「ジョナサン王子。お越しくださり、感謝します」
「公爵。単刀直入に申し上げます。王国を救う方法が、あるのではないですか」
ヘンリーが微笑む。
「あります」公爵は机の上に羊皮紙の束を広げた。「これが、新しい魔力供給システムの設計図です。百人の魔導師が協力すれば、実現可能です」
ジョナサンが設計図を見つめて唸る。精密に描かれた図面は、まさに革新的なシステムだった。
「ただし」ヘンリーが続ける。「この設計図の作成者は、マーガレットです。彼女の許可なく、使うわけにはいきません」
「では、僕が説得に行きます」
ジョナサンは即座に答えた。ヘンリーが王子の目を見つめて真意を探る。
「殿下、一つだけ、お願いがあります」
「何でしょう」
「彼女を無理に連れ戻さないでください」
ジョナサンは頷いた。
「お約束します」
馬車は辺境の村ウィローズエンドへ向かった。到着したのは、夕暮れ時だった。
村長の案内で、ジョナサンはマーガレットの家を訪れた。扉を開けたマーガレットは、王子を見て驚きの表情を浮かべた。
「ジョナサン王子」
「お久しぶりです、マーガレット様」ジョナサンがマーガレットの前で跪く。「僕は、兄の婚約破棄を止められませんでした。王族として心から謝罪します」
「顔を上げてください」マーガレットは王子の手を取った。「あなたに謝っていただくことは、何もありません」
ジョナサンは立ち上がって、ヘンリー公爵から託された計画書のことを話した。
「父上の計画書ですね」マーガレットは微笑みながら続ける。「実はもう一つ設計図があります」
彼女は部屋の奥から別の羊皮紙を持ってきた。
「これが、最終版です。父の計画をさらに改良しました」
ジョナサンは設計図を見て息を呑んだ。それは、公爵から見せられた設計図よりもさらに洗練された、効率的なシステムだった。
「これで、王国は誰か一人に依存せずに済みます。いつか、この日が来ると思っていました」
マーガレットが設計図を手渡すと、ジョナサンの目に涙が浮かんだ。
「あなたは……王国を見捨てていなかったのですね」
「見捨てるつもりはありませんでした。ただ、一人に頼るシステムは、いつか破綻します。それを、変えたかっただけです……」
二人は無言で笑みを交わした。
三ヶ月後、新しい魔力供給システムが稼働した。百人の魔導師が協力し、マーガレットの設計図を実現させた。
王国はゆっくりと復興し始めた。
ハーレイ王太子は、無能と無責任の罪により廃嫡され、ジョナサンが新たな王太子となった。
セレナ・ブライトウェルは、聖女の座を降り、王都の孤児院で働き始めた。偽りの聖女ではなく、本当に人を助ける道を選んだのだ。
マーガレット・ハドソンは、ウィローズエンドの村で技術学校を開いた。次世代の魔導技師たちを育てるために。
そして、ジョナサン王子は、頻繁に村を訪れるようになった。
ある日、技術学校の教室で、ジョナサンはマーガレットに尋ねた。
「いつか、僕が王になったら……」
マーガレットは王子を見つめ返す。
「その時は、また考えましょ。でも今は、私はここにいたいのです」
笑みを浮かべる彼女にジョナサンは頷いた。
「分かりました。あなたの自由を何より尊重します」
夕日が二人を温かく照らしていた。
(了)
読んでいただいてありがとうございます。
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