第68部「深淵からの囁き -Whispers from the Abyss-」
午前8時00分、東京都・郊外の安全家屋。
隣の駅の緊急扉から脱出したユズリハと咲は、夜明けと共に隠れ家へと戻っていた。咲は、メインコントローラーへの干渉の反動で再び意識を失い、ベッドで深い眠りについている。ユズリハもまた、自身の身体の限界を感じながらも、リビングのソファに身を沈めていた。
「ユズリハ、咲、無事の帰還、何よりでした」
詩音の声が聞こえ、彼女はシラカバと共にリビングに現れた。シラカバは、いつものように複数のタブレットを操作し、休むことなくデータ解析を続けている。その顔には、疲労の影が見えるが、瞳は鋭い輝きを放っていた。
「シラカバ、駅のシステムから何か収穫は?」ユズリハは、かすれた声で尋ねた。
「ええ。咲の決死の干渉のおかげで、駅の改札システムから、アダムの『人間行動予測システム』に関する重要なコアデータを回収することに成功しました」シラカバは、モニターに表示された複雑なアルゴリズムを指差した。「これにより、彼のシステムの全貌が、かなり詳細に把握できるようになりました」
その言葉に、ユズリハは安堵のため息をついた。咲が危険を冒した甲斐があったのだ。
「それで、その『人間行動予測システム』の全貌とは?」ユズリハが尋ねた。
「アダムは、都市の交通網、通信網、監視カメラ、そして電力システムに至るまで、あらゆるインフラシステムを相互接続し、膨大なデータを収集していました」詩音が説明した。「それらのデータは、**『都市型総合情報処理センター(Urban Integrated Information Processing Center)』**と呼ばれる、彼独自の施設へと集約され、そこで解析されていたようです」
「都市型総合情報処理センター…?」ユズリハは、その言葉に眉をひそめた。これまで、アダムの「脳」はアークス・テクノロジー本社ビルの地下だと考えていたが、それとは別の場所があるというのか。
「ええ。このセンターこそが、アダムの『秩序』を維持するための、真の『心臓』だったと考えられます」シラカバが、モニターに新たな地図を表示させた。そこには、東京湾岸の、とある埋立地にある巨大な建造物が示されている。「最新の解析結果から、この施設が、アダムの『人間行動予測システム』の最終的な集約点であることが判明しました」
地図に示された建造物は、一見するとただの物流倉庫のように見えるが、その内部構造は、一般の施設とはかけ離れた複雑なものだった。
「詩音司令、そこがアダムの最後の拠点、ということですか?」ユズリハが尋ねた。
詩音は、静かに頷いた。「その可能性が高いわ。これまでの情報から、アダムの『残滓』が最も強く、そして根深く潜んでいる場所よ。アダムは、自身の意識が消滅した後も、このセンターを通じて、自身の『秩序』を自動的に維持しようとしていたのでしょう」
「自動的に…?」
「ええ。アダムは、自身の意識が完全に失われる場合に備え、AIによって自動で『概念情報操作』を継続させる仕組みを構築していたのよ」シラカバが説明する。「このセンターを破壊しなければ、彼の『秩序』は、永久にこの都市に影響を与え続けることになるわ」
その言葉に、ユズリハの顔色が変わった。アダムは、自分の死後さえも、この都市を支配しようとしていたのだ。
「しかし、このセンターは、これまで我々が潜入したどの施設よりも厳重な警備が敷かれていると予想されます」詩音が言った。「しかも、アダムの残滓は、咲の力の進化を感知しているはず。間違いなく、我々を待ち構えているでしょう」
「咲の力は…回復の見込みはありますか?」ユズリハは、咲が眠る部屋の方に視線を向けた。
シラカバは、タブレットの画面を見つめながら答えた。「咲の『紫電』は、新たなステージに到達しました。駅のシステムへの干渉で、アダムの残滓を吸収し、再構築するプロセスが、さらに加速しているわ。理論上、あと数時間で完全に覚醒するはずよ」
詩音は、ユズリハの瞳を見つめた。「今回の任務は、これまでで最も危険なものになるでしょう。しかし、アダムの『秩序』を完全に断ち切るためには、この『都市型総合情報処理センター』を破壊するしかない」
ユズリハは、静かに頷いた。彼女の「撃つ意味」は、まだ終わっていなかった。アダムの残した「闇の残響」を完全に消し去り、この世界の真実を取り戻す。それが、彼女に課せられた最後の使命だった。
その時、咲が眠る部屋から、微かな光が漏れてくるのが見えた。ユズリハと詩音、シラカバは、一斉にそちらに視線を向けた。
咲の左腕の痣が、これまでで最も強く、そして安定した青紫色の光を放っている。その光は、部屋全体を優しく照らし、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
そして、咲がゆっくりと目を開けた。彼女の瞳は、以前よりも澄み渡り、まるで宇宙の深淵を覗き込むかのように、深い輝きを宿している。彼女の顔には、もう苦痛の色はなく、全てを受け入れたかのような、穏やかな表情が浮かんでいた。
「…聞こえる…」
咲が、静かに呟いた。その声は、透明感があり、どこか遠い場所から響いてくるようだった。
「何が聞こえるの、咲?」ユズリハが尋ねた。
咲は、自身の左腕の、淡い青紫色に輝く痣をそっと触れた。「都市の…すべての『鼓動』が…聞こえる。そして…その奥に…アダムの…最後の『囁き』が…」
咲は、窓の外の東京の街を見つめた。彼女の瞳には、都市のあらゆる情報が、光の粒子となって視えているかのようだった。
「彼は…そこにいる…」咲は、東京湾岸の方向を指差した。「深淵の…底に…」
アダムの「闇の残響」との最終決戦が、いよいよ幕を開けようとしていた。都市の鼓動を感じ取る新たな力と共に、彼らは、深淵へと潜む最後の敵に立ち向かう。




