第66部「地下鉄の囁き -Whispers of the Subway-」
午前11時00分、東京都・都内主要駅・地下改札口。
東京の地下深く、巨大な駅の改札口は、今日も朝のラッシュアワーを終え、それでもなお途切れることのない人々の波で賑わっていた。ユズリハは、混雑に紛れて警戒しつつ、咲の隣を歩く。咲の左腕の痣は、淡い青紫色に輝き、その瞳は、周囲の喧騒の奥にある「都市の鼓動」を捉えようとしていた。
「シラカバ、駅の改札システムの状況は?」ユズリハは、耳元の通信機に囁いた。彼女の視線は、行き交う人々の中に不自然な動きがないか、常に注意を払っている。
「中央改札システムから発信されるアダムの『概念情報操作』の信号は、予想以上に強いわ。特に、ICカードのデータ読み取り部分から、集中して情報エネルギーが放出されている」シラカバの声は、緊迫していた。「ここは、アダムの『人間行動予測システム』の中核を担う場所よ。人々の移動パターンを把握するための、まさに『都市の目』だわ」
「咲、何か感じる?」ユズリハが、咲に視線を向けた。
咲は、目を閉じて集中し、駅の空気、そして地下鉄の振動の中に溶け込むように、その意識を研ぎ澄ませていた。彼女の左腕の痣が、微かに脈動している。
「…たくさんの声が…聞こえる」咲が、静かに呟いた。「人の声じゃなくて…情報の声…それぞれのICカードから…たくさんの情報が…アダムの『目』に…吸い上げられていく…」
その言葉に、ユズリハはゾッとした。咲は、文字通り、ICカードが発する情報エネルギー、そしてそれがアダムのシステムへと流れ込んでいく様を、肌で感じ取っているのだ。
「アダムの『残滓』は、どこに潜んでいる?」ユズリハが尋ねた。
咲は、ゆっくりと目を開け、改札口の奥、駅員室の方向を指差した。「あそこ…一番奥の…機械室…多分、あそこに…アダムの『目』がある」
シラカバの声が、通信機から響いた。「咲の感知は正確よ!駅員室の奥に、改札システムを制御するメインコントローラーが設置されている。そこから、アダムの『概念情報操作』が強力に発信されているのが確認できたわ!」
「詩音司令、機械室への侵入経路は?」ユズリハが問いかけた。
「機械室は、駅のセキュリティシステムと直結しているため、物理的な侵入は極めて困難よ。シラカバが、遠隔でシステムを迂回させる試みはしているけど、アダムの『残滓』が強固な防壁を築いているわ」詩音の声は、冷静だったが、その中にわずかな焦りが感じられた。「咲の力が、直接システムに干渉する必要があるでしょう」
駅の構内には、複数の警備員が巡回しており、彼らはアダムの「概念情報操作」の影響を受けている可能性があった。彼らの監視の目を掻い潜り、機械室へと辿り着かなければならない。
「咲、体調は?」ユズリハが尋ねた。咲の力は回復しつつあるとはいえ、過度な負担は避けたかった。
「大丈夫。でも…機械室に近づくと…もっとたくさんの『声』が聞こえてくる…きっと、アダムも…私の力を感じ取っている」咲は、真剣な表情で答えた。
その言葉通り、改札口の混雑の中、数人の駅員が、ユズリハたちの方を不自然に視線を向け始めた。彼らの瞳の奥には、どこか虚ろな光が宿っている。
「まずい!彼らも『媒介者』よ!アダムの『残滓』が、彼らの意識に干渉し始めているわ!」シラカバが警告した。
駅員たちは、ユズリハたちへとゆっくりと近づいてくる。彼らの手には、無線機が握られており、何かを報告しようとしているようだ。
「ユズリハ先輩…!」咲が、P90を構えた。
「咲、彼らは民間人よ。発砲は避けて」ユズリハは、P320を構えながら、駅員たちに視線を向けた。「シラカバ、彼らを無力化できるか?」
「可能だけど、駅構内の混乱を避けるには、咲の『情報エネルギー干渉能力』が最も有効よ!彼らの精神への干渉を、一時的に無効化するしかないわ!」シラカバが指示した。
ユズリハは、駅員たちと距離を取りながら、咲へと合図を送った。咲は、大きく息を吸い込み、左腕の淡い青紫色の痣に、意識を集中させた。
『…ゼロ…ゼロ…ゴ…認識…遮断…』
咲の口から、詩音の声とアダムの声が混じり合ったような、不思議な響きの言葉が漏れた。その言葉と共に、咲の左腕から、目には見えない微細な電磁波の波紋が、駅員たちへと広がっていく。
駅員たちは、まるでスイッチが切れたかのように、その場で動きを止めた。彼らの瞳の虚ろな光が消え、困惑したような表情を浮かべている。
「よし!認識を遮断したわ!彼らは、一時的に私たちを認識できない状態になったはずよ!」シラカバの声が響いた。「この隙に、機械室へ急いで!」
ユズリハと咲は、混乱した駅員たちの間を縫うように、機械室へと向かって駆け出した。駅構内は、依然として人々の喧騒で溢れているが、誰もユズリハたちの行動に気づく様子はない。
機械室の扉は、厳重なロックがかけられていた。扉の向こう側から、強烈な情報エネルギーの脈動が感じられる。アダムの「残滓」が、この駅の神経系統を、完全に支配しようとしているのだ。
「咲、頼むわ」ユズリハが言った。
咲は、扉にそっと手を触れた。彼女の左腕の痣が、一際強く青紫色の光を放った。光は、咲の腕から扉へと伝わり、扉の表面に、青紫色の複雑な紋様が浮かび上がった。
「ガガガガ…!」
扉のロックが、機械的な音を立てて解除された。アダムの「残滓」が築き上げた防壁が、咲の「情報エネルギー干渉能力」によって打ち破られたのだ。
「成功よ!咲!扉のロックを解除したわ!」シラカバの声が、興奮気味に響いた。
ユズリハは、扉を勢いよく開け放った。その奥には、無数のサーバーラックと、青白い光を放つ巨大なメインコントローラーが鎮座していた。そして、そのメインコントローラーの最も奥まった場所に、かすかに脈動する、あの「目と歯車のシンボル」が見えた。
「あれが…アダムの『目』…」咲が、そのシンボルを見つめ、静かに呟いた。
しかし、その瞬間、機械室の天井から、複数の警備ドローンが、唸り声を上げて姿を現した。そして、メインコントローラーの周囲から、重々しい金属音と共に、警備ロボットがゆっくりと現れ始めた。
「まずい!アダムの『残滓』が、最後の防衛システムを起動させたわ!」シラカバが警告した。「咲、急いで!シンボルに直接干渉しないと!」
ユズリハは、P320を構え、迫りくる警備ドローンに銃口を向けた。地下鉄の喧騒の奥で、新たな激闘の火蓋が切って落とされようとしていた。




