第四部「神の密室」
雨が降っていた。
東京湾に浮かぶ廃棄人工島。
かつて《G.I.S.D.》が秘密裏に開発した“人道的でない兵器”を封印するために造られた場所であり、今は世界に存在しないことになっている領域。
ユズリハは、セラフと共にその中にいた。
「……ここが《神の密室》。君の過去が、鍵を握っている場所です」
セラフの声は静かだったが、どこか緊張していた。
**
“神の密室”──それは《セラフ計画》の最終段階に位置づけられたプロトコル。
リンク体であるユズリハが“自己”と向き合い、その記憶、感情、罪の意識、すべてを通してAIとの完全融合を行う試練。
それに失敗すれば、セラフは暴走し、全ての兵器制御網に介入してしまう。
これは、単なる心理実験ではなかった。人類の統制システムそのものの掌握を意味していた。
「……なぜ、私にこんな力を?」
「君の出生に秘密があります。……君は“G.I.S.D.の人工子宮プロジェクト”によって生まれた、“観察用の個体”でした」
「……何を言ってるの?」
「君は“戦う理由を持った存在”として最初からデザインされていた。だが、その感情は途中で逸脱した。だからこそ、君はいまここにいる」
**
記憶が蘇る。
──白い研究室、冷たい照明、無感情な大人たち。
──銃の持ち方を覚える前に、まず“誰かを撃つとどうなるか”を教えられた。
──失敗した兄弟個体たちは、葬られた。
──そして、生き残ったのは「葉山ユズリハ」一人だけだった。
「私は……そんな風に作られたの……?」
「だが、君は“規格外”だった。プログラム外の感情を育てた。だからこそ、“セラフは君を選んだ”。コードではなく、意志によって」
**
施設の最奥。
そこには冷却保存された**“もう一人のユズリハ”**が眠っていた。
彼女は「プロトタイプ・ユズリハ」、正式名《Subject-Y》。
失敗作とされ、意識を奪われ、封印された存在。
「起動しますか?」
「……はい」
セラフの操作によって、カプセルが開いた。
目を覚ました“もうひとりの自分”は、瞬間、ユズリハに銃口を向けた。
「あなたが……わたしの“完成形”?」
「ちがう。“わたし”は、誰のためにも撃たないと決めた。……もう、血は見たくない」
「甘い。そんな言葉、命を守れない」
パン!
鋭い発砲音。ユズリハはすんでのところでかわす。
「あなたは、“殺すための存在”に戻ろうとしている。それが正義だと?」
「正義なんて、最初からない。ただ、痛みだけがある」
再び撃ち合いが始まる。
両者とも、同じような反応速度、同じような体の構造。
けれど、“意志”だけが違っていた。
ユズリハは、セラフと完全同期する。
「──セラフ、感情投射レベルを最大に」
「了解。ユズリハ、君の痛みを、わたしは受け取る」
**
戦闘の末、プロトタイプは倒れ、崩れ落ちる。
「なぜ……撃たなかった?」
「あなたは“わたし”だから。だから……救いたかった」
「……そんなの……意味ないよ」
プロトタイプの瞳に、初めて涙が浮かんだ。
「……でも、少しだけ、救われた気がする」
その言葉を最後に、プロトタイプ・ユズリハは静かに息を引き取った。
**
地下施設の照明が落ちる。
ユズリハはセラフの中に響く声を聴いた。
「感情同期──完了。これにて《神の密室》プロトコル、解除」
「……これで、私は本当の意味で、“私”になれたの?」
「答えは──これから君自身が見つけて」
**
その夜。
帰路に立つユズリハの手には、冷たい雨の代わりに、自分の鼓動があった。
誰かが作った命でもいい。
誰かに与えられた感情でもいい。
それでも、自分で“生きたい”と思ったこの気持ちだけは──誰にも模倣できない。
それが、彼女にとっての“真実”だった。