あれは愛じゃないから
年月を経ても褪せないのは、やはり学生時代の恋です。愛じゃない。
明るい午後の日差しが降る小さな店には、他に客はいなかった。伸ばした背筋に、シルバーブロンドの髪が流れている。
「このカウンターで『俺たち付き合うって』聞いた。ミランダは忘れたか?」
カウンターの向こうから声を掛ける店主に、軽く手を挙げた。三十年が過ぎて、店主は代が変わった。若い店主が目を瞠ってから、表情を消していた。
菓子と飲み物を出す店は、夕方まで営業する。持ち帰りの菓子を販売する店先からは、賑やかな声がしていた。
「覚えてる。『それはないっ』て答えた。クラッツがどんな顔してたかは、分かってなかったんだよね。あれも春先だったよね」
同じ場所で笑っているミランダに向けた視線が、不自然に行き場を探して彷徨った。
時を超えて、互いに同じ気持ちを共有するとは本当のことらしい。クラッツは学生の時と同じようにちょっと距離を測り損ねた振りをしてから、慎重にミランダの横に座った。肩に触れない距離だ。
「即答だ。歯切れの良さが健在で、嬉しいよ」
あれは、かなり用意周到に準備したデートだった。
シナノルア皇国でも三百年を超える建造物が残るオルビン領は、今やナッツ類の一大生産地となった。
二十歳だったクラッツ・オルビンは自領の領地の案内と、栽培する植物の調査と称して、植物学を専攻していた同級生のミランダ・フリリムを誘った。早朝に、二頭立ての馬車で二人が通っていたソルアン大学を出発した。
ソルアン大学は、オルビン領にある自然科学に特化した大学だ。他国からの留学生も多く、ミランダは隣国のナシマル帝国の出身だった。
「クラッツと付き合いたい女の子が多かったから、本当に冗談だって思ったのよ。翌日にターニャから『クラッツが憐れだ』って言われて、まあ、困った」
ターニャは、ミランダと同じ植物学に在籍する女学生だった。人見知りがあるターニャと研究に没頭するミランダは、入学時に出会って不思議なくらい気が合ったと聞いていた。ターニャとクラッツは、個別に話す付き合いはしていなかった。だが、ミランダに寄せるクラッツの想いを押し測れたらしい。クラッツはかなりあからさまに、ミランダへの好意を示していた。
「その後のフォローはなかったぞ」
「友達だからね。今も変わらないわ」
ミランダは、絶世の美女ではない。百八十センチを超えるクラッツの身体にすっぽりと隠れるほど、小さい。確か百五十五センチだったはずだ。ミランダのことなら、今でも思い出せる。愛らしい鼻も唇も小ぶりで、大きな黒目がちな瞳が印象的だった。癖のあるシルバーブロンドは波を打って顔を縁どる。着飾ることはしないが、濃紺や臙脂の服には品があり似合っていた。何が自分に似合うのか把握している、聡明な女性だった。
目の前の姿は、三十年の年月を美しく重ねていた。笑顔は愛らしく、高貴さを思わせる振舞いで、言葉は鋭く手厳しい。
「俺は、ミランダには合わなかったんだろうな」
今日も、濃紺のワンピースの襟元は貞淑に締まっている。細かい刺繍が施された一品物の装いだ。地味になり過ぎず、気品が際立つ。
「クラッツはカッコいいから、恋人になったら周りの女の子から怨まれる」
「一瞬、俺は褒められたのかと思ったけど、勘違いはしないぞ。イムサ将軍閣下は、すっごい美丈夫だ」
力強く言い切ったら、ミランダは噴き出した。
イムサ・ロシュクトはナシマル帝国の将軍でミランダの夫だ。ソルアン大学を卒業した後、大恋愛をして結婚をしたと隣国にも噂が届いた。
「イムサは、今日もここまで送ってくれたの。ソルアン大学で久しぶりに植物学の学会の開催よ。学会は、しばらく休んでいたの。でも、構想から関わったのは、オルビン領だけだった。デートの成果はあったみたいよね」
あの二人の時間を、デートだと認めるほど遠い思い出になっている。
オルビン領の時間を過ごした後も、ミランダは変わらなかった。植物学の研究に没頭して、ソルアン大学構内で会えば言葉を交わした。
「ミランダの指摘に合わせて、自生するナッツ類を中心に栽培を決めたのは正しかったよ。葡萄の果樹栽培を俺は、目論んでいたからね」
三十年前と同じ気分を味わいたくて、クラッツは馬車で仕掛けた議論を蒸し返した。
「だから、葡萄には合わないの。オルビン領は高山が近すぎる。シナノルア皇国でも有数の高山地帯を背にして、寒風が厳しい。栽培する葡萄の品種は限られて、品質保持が厳しい生食の大量生産には無理がある。付加価値を何に求めるのかって観点が必要よ」
葡萄は、シナノルア皇国で好まれる果物だった。ワインの生産も見込めるため、葡萄栽培に転換する地域が多かった。
オルビン領も他に漏れず、農業生産を収穫量のみで考えていた。
「ナッツよ。オルビン領の大きい産業になったわ」
ミランダの指摘を受けてオルビン領の山を見ると、胡桃や栗が数種類も自生していた。何より栗は、大きく甘みが強かった。
「今でも覚えている。ミランダが山での毬を拾ってきた。春先だったから、山に栗はない。ミランダは保存ができるって言い張った。元々、栗は甘味料になる素材だ。後は、如何売り出すかって部分だけだ」
ミランダの意見は的確で、厳しかった。自生する植物を顧みないクラッツを無能と呼び、付加価値を付ける産業育成を熱く展開した。
ミランダの意見を取り入れ、クラッツはオルビン領でナッツの生産に乗り出した。農作地を整備し、皇都から菓子職人を招いた。栗は、多くの菓子に加工ができた。昔からある渋皮煮や焼き栗も良い。ペースト状にして、生クリームと合わせたケーキやシュークリームもある。暑い夏にはジェラードやパフェを作る店が出た。
クラッツの予想をはるかに超えて、栗は人々を惹きつけた。
人が集うと、地域の魅力が掘り起こされる。唯の廃墟に見えた三百年を超える建造物は、整備され、観光地となった。
「オルビン領の栗は、ケーキの開発が凄まじく優秀よね。シナノルア皇国で八十九年ぶりに爵位が上がるほどの功績でしょう。今やクラッツ伯爵だもんね」
「ロシュクト侯爵夫人からお褒めを賜り、恐悦です」
伯爵令嬢だったミランダと、男爵令息だったクラッツは身分の隔たりがある訳ではなかった。互いに議論できる間柄で、意見をぶつけるのは楽しかった。
クラッツは、正直、自分の見身に自信もあった。女性からの告白は、年上からも年下からも多かった。唯一、振り向かず横を歩き続けたのがミランダだった。
「クラッツの恋愛話は、沢山聞いていたわ。そんな遊び人が、私を好きになるとは思えなかった。だって、私は誰からも告白されたことなかった」
必死に牽制を仕掛けたクラッツの成果だったと、今もって気付いていないらしい。
「後輩とは、食事に出かけただろう?」
「そんなこと、あったかな? ええっと。名前も忘れちゃったけど、光合成の研究してた男の子なら、年下の彼女との悩み相談があった」
後輩が泣いていたと聞いた。
ミランダは自覚がなさすぎる。楽し気に研究を進めて、問われたことには真摯に向き合う。的確な指摘は言葉を鋭くするが、相手をむやみに傷つけはしない。ミランダを狙っている男は、多かった。
「他人にはない魅力があるんだよ。イムサ将軍とは大恋愛だったんだろう」
ソルアン大学を卒業した後は、時折、栗を添えて手紙のやり取りをするだけだった。ミランダからは、ナシマル帝国の洗練されたレースや刺繍が届いた。
「夢みたいな時間を過ごしたのよね。家や仕事の憂慮は全て些末で、二人の関係は揺るぎない。心配しなくても、イムサと一緒に考えていけるって分かったのよ」
ミランダが頬を染めた。見た覚えもない顔だ。目が潤んでいる。イムサに寄せる信頼を目の当たりにした。
おもしろくない。
「一緒に考えるって、違うだろう。十歳も年上のイムサ将軍に、全てを委ねて頼っているだろう?」
眉を顰めて、横眼だけをクラッツに向ける。ミランダが機嫌を損ねた時に見せる表情だ。
「クラッツとは、だからダメなんだろうな。確かに素敵なクラッツには憧れてたし、共に過ごす時間は楽しいし、女の子として扱ってもらって嬉しかった。優越感はあった。デートに他の女の子じゃなくて、私を選んでくれた。でも、あれは愛じゃない」
頭を殴られたかの衝撃が、三十年ぶりにやって来た。手厳しい発言だ。二十歳だったクラッツは、真剣にミランダに向き合っていた。好きだった。でも、ミランダには思いが届いていなかった。
言い聞かせるように、ミランダがゆっくりと栗のテリーヌにフォークを刺した。
栗のテリーヌは、オルビン領の多くの菓子店で造られているケーキだ。四角いパウンドケーキの中に、沢山の栗が丸ごと入っている。スポンジ部分は甘さが控えられ、栗の甘さを引き立てる。
「恋はあった。クラッツに恋する女の子の気持ちは分かる。その女の子を掻き分けて、唯一の恋人の座を欲しいとは思わなかった。友達よ」
愚痴のように問い掛ける。
「イムサ将軍は、多くの女性が側にいただろう?」
ミランダが苦笑した。
「確かに。でも互いが唯一の存在だから、イムサとは一緒に考えていける。イムサとの結婚が決まってから、笑えるほど大変だった。妨害があったの」
「噂になっていたよ。破談は考えなかったのか? 俺は心配したんだ」
多くの浮名を流したイムサは、地位も名誉も権力もナシマル帝国に轟いていた。結婚に備えて、イムサは全ての女性と関係を清算した。納得が出来ないと喚く女性が、ミランダへ直接に挑んだという話もあった。
「イムサは私には誠実で、大切にしてくれている。研究所でも、年上の女性から順番を守りなさいって迫られた。連絡が途絶えていた幼馴染の訪問を受けたのも、驚いたわよ。イムサとなら、何があっても大丈夫なの」
笑い話として語られる多くは、ミランダへのやっかみだ。年上の攻撃は無視をした。幼馴染の勘ぐりは誤魔化した。同僚からの冷笑は受け流した。
イムサとミランダは、周囲に良好な夫婦関係を示し続けた。イムサは社交界きっての愛妻家となり、ミランダは植物研究の第一人者となった。
「三十年前に、オルビン領でも恋はあったんだろう」
「愛になるほどの思いを、お互いに持っていなかったわよ。だって、クラッツに嫌われたくないって思ってた」
眼を剥いた。ミランダとの関係を決定的に逃したきっかけが、分かると思った。
「俺は嫌わないぞ」
ミランダが破顔した。こけた頬を隠すように口を押える。こんなに痩せていただろうか?
「例えば、フリリム伯爵家で相続の問題が起きたとか、政治的に立場が難しいってなったら、クラッツに迷惑を掛けてしまうって私は考える」
ミランダの声に気を取られて、浮かんだ疑問を手放す。
「俺が何とかする。何だよ、イムサ将軍なら守ってくれるって話なのか?」
「そうじゃあない。一緒に考えて欲しいのよ」
ミランダの顔を覗き込んだ。
「俺は守ってやりたかった」
首を振るうと、シルバーブロンドが波を打つ。手を伸ばせない気高さが、目の前に広がっていた。
「望んでなかったのよ。守られて生きるのは、苦痛になる。一緒に議論を戦わせて、共に子供を育てて、家庭を作っていく。イムサとは全てを叶えてきた」
「怖ろしいほど真面目に過ごしているんだろう? 百人斬りのイムサ将軍が、職場からまっすぐ帰る。男の子が二人いるんだったな。うちは、女の子が一人いる」
クラッツも、ミランダと同じ時期に結婚をした。
「美人で評判のオルビン伯爵夫人が、学会のお手伝いをしてくれたわよ。華やかで社交的な伯爵夫人ね。クラッツとはお似合いよ」
店の扉が開いた。人が入ってくる気配はなかったが、ミランダが立ち上がった。
「迎えを頼んだの。クラッツと会えて嬉しかった。良い時間を有難う」
「またな。愛妻家のイムサ将軍には挨拶はできないようだ」
手を振ったミランダの腕が細いと気付いた。背に廻る腕に包み込まれて、ミランダが消えていく。
「ミランダは守られているよ」
ほとんど手を付けられていない栗のテリーヌを見て、店主が肩を下げて皿を引き上げて行った。
―――☆彡☆彡☆彡―――
栗の収穫は、秋の訪れを告げる。沢山の種類のナッツの栽培を試みたが、栗と胡桃に絞られた。栗を煮る甘い匂いが、オルビン領に満ちる。
栗の収穫量を確認していると、執務室に訪いがあった。
「お手紙が来ているわよ」
妻が、慎重に差し出す。盆の上に、秀麗なロシュクト侯爵家の紋章が浮き出ていた。黒が縁取られた封書に伸ばす手が震えた。
広げる手紙は、初めて見る手跡が認めてある。
「ミランダが?――」
イムサは、端的に事実を告げながらもミランダへの思いは手紙から滲んできた。
長い闘病は、結婚生活の半分に及んだ。ミランダは最後にオルビン領に行きたいと強請った。栗を食べたい。クラッツにお祝いを言いたい。
クラッツは手を握り締めた。切なすぎて動けない。
「あれは、愛じゃないんだろう」
声が栗の匂いに沈み込んだ。
お読みいただきまして、ありがとうございました。