第4話 珈琲専門店
駅を通り過ぎて反対側へ出て、大きな通りから横道にそれる。
細い通りがいくつもあるこのあたりは、比較的小さな店が軒を並べるワンダーランドだ。
小径を何度か曲がった先にその店はあった。
古くて重厚な造りのドアは、今日もピタリと閉まっている。初めて入るにはかなり勇気がいる感じの店である上に、なんと、ここは閉まっていることの方が多い。
シュウが期待を込めながらドアノブに手をかけてグッと引く。
すると。
ギッと扉が動いたのだ。
なんと運の良いことに、今日は開いているようだ。
「わあ、ラッキー」
「さすがは冬里だね」
「悪運も実力のうちって? ひどいよシュウ」
誰もそんなことは思っていないと、苦笑に乗せて冬里を見やる。
「こんにちは、営業していますよね」
「扉が開いていると言うことは、オープンしていると言うことです」
店主が言うのに、シュウは微笑んで店の中へ一歩踏み出す。
途端にふくいくとしたコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
ここの店主は年齢不詳、とは言ってもほとんど開いていないので、顔を見たのは数えるほどだ。あるときは80歳のじいさんに見えたり、あるときは30代の若者に見えたり、来るたびに違う眼鏡をかけているからそう見えるのだろうか。
だが千年人ではない。
そしてコーヒーがやたらと美味い。シュウと冬里が舌を巻くほど美味い。
日々の鍛錬の賜、と店主がのたまうように、彼はコーヒーが好きで好きでたまらないらしい。店を開けるより研究や実験をする方が楽しいのだそうだ。
由利香なら「珈琲命! なのね」、と言うところだろう。
店はこじんまりとしていてカウンターのみ。5・6人も腰掛ければ満席だ。
研究ばかりなので店は放ってあるかと思うだろうが、そんなことはない。綺麗に磨き上げられたカウンターと、豆ひき機もいつでも稼働出来るように調整されている。
後ろの棚には色とりどりのカップが正しく間隔を空けて並べてある。
「でも、あなた方は運が良い。今、開けたばかりです」
「ああ、それは良かった」
「ふうん、やっぱり僕ってすごいのかなあ」
首をかしげる冬里の前に、メニューが置かれるが、もちろんここのメニューはコーヒーのみ。ただ、世界各地のコーヒーを取り揃えていると豪語するだけあって、種類がやたらと多いので、どれを選ぼうかと初心者は迷いに迷う。
そこで店主に聞いたが最後、店主は水をえた魚になり、立て板に水のごとくコーヒー講釈が始まるのだ。
初めて来たときは冬里でさえポカンとしていたが、もう今は慣れたものだ。
「久しぶりだからよくわからないなあ、どれがいいですか? おすすめは?」
冬里が聞くと、待ってましたとばかりに店主の顔がほころんだ。
わざとだな。
シュウの前には、話が長くなる前にとオーダして落としてもらったモカが置かれている。久々に味わうそれは、やはり極上の味だ。
けれど冬里は、話し続ける店主に絶妙のタイミングで「へえ」とか、「わあ、そうなんだ」とか、合いの手を入れるので、店主が気を良くしていっそう饒舌になるため、未だにどれにするか決められない、いや、決めていない。
これはきっとわざとだなと言うことに気が付いたのだが、なぜそんなことをするのかもわからないし、ここで店主の話の腰を折るのも大人げない。まあ、急ぐ旅でもないし、ゆっくりコーヒーを味わおうとそのままにしておいた。
「じゃあそれをお願いします。……ああ、面白い話が聞けた。ねえ、シュウ?」
「え? ああ」
確かに興味深い事も多々あったのは本当だ、シュウは微笑んで頷いた。
冬里の前にケニアブレンドが置かれたタイミングで、シュウはおかわりを所望する。
マイルドブレンドをオーダーすると、興に乗っている店主は、マイルドブレンドの配合を少し変えたと言い、この豆とこの豆とこれとあれと、と説明してくれる。
「以前のとはきっと違うと思いますが、こちらはより美味しくと研究したものです。お気に召すと良いのですが」
「大丈夫だと思います。ここのコーヒーは本当に美味しいので」
正直な感想を述べると、店主はニコリ、いやニヤリとしてあらためてコーヒー豆を挽き始めた。
「でもさ、シュウって本屋は本を選ぶだけって感じで、くそ真面目に催し物とかフェアとか関心ないと思ってたら、意外と寄り道するんだね」
「え?」
「ライブ演奏、聞いてたでしょ?」
ニッコリ笑う冬里に思わず引き気味になる。
「え、あとをつけてたの?」
すると冬里はブッと吹き出して言う。
「まさかあ、浮気調査の私立探偵じゃあるまいし」
「……浮気調査」
「そっち? まあいいけど。僕の方が先にいたんだよあの会場に」
「え?」
「6階でもパンフレット配ってて、プログラム見たら面白そうだったからさ、降りていったらまだ人もまばらだったから椅子に座れたんだ。気づかなかった?」
「気づかなかった、と言うか、私は本当に演奏が始まる直前に降りていったからね。最後列と言っても良いところにいたから」
「なるほど、それでか。で、終わったあとにシュウがエスカレーター降りていくの見えたから、あ、いたんだと思ってね」
「ああ。生演奏は久しぶりだったから、楽しませてもらったよ」
「たまにはいいよね」
「どうぞ」
話が途切れたタイミングで、頼んだ珈琲が出てくる。
「ありがとうございます」
シュウは確かめるように香りを楽しむと、カップに手をかけた。
ギッ
シュウが2杯目に口をつけたタイミングで、ドアが開く。
また1人、運の良い客が来たようだ。
「うお! 開いてる。俺ってラッキーボーイ?」
けれど、どこかで聞いたその声は。
「やってますよね、って、あれ? シュウさん、冬里?」
なんと夏樹だった。
「やってますよお。どうぞこちらへ」
冬里がおいでおいでしながら、なぜかひとつ空けていた一番奥の椅子を勧める。
「冬里が連絡したの?」
あまりの偶然に、シュウが珍しく驚いたように言う。
「え? なにが? してないよ。僕の悪運の強さ、だよ」
ふふ、と微笑んで言う冬里に、シュウはあきれかえりつつ、あらためて彼のつかみ所のなさと言うか、得体の知れなさに感心してしまう。
(いや、もしかしたらこれが本当のホラーかな?)
「なににやついてんの、シューウ?」
「いや、なんでもないよ」
「でもすごいっすね! 俺、親父さんの店からまっすぐ帰ろうと思ってたんすけど、なんかこの店をパッと思い出して。で、ダメ元だあって来て見たら開いてるし、おまけにシュウさんと冬里までいるし。うー嬉しいー」
と、夏樹の言葉が途切れたちょうど良いタイミングで、店主が水とおしぼりを差し出す。
「何になさいますか」
「うーん、ひっさびさだからなあ。おすすめはなんっすか?」
途端に店主の顔がほころんだ。




