第2話 丁寧な仕事
夏樹がどこへ行くとも言わずに歩いて行く道には、見覚えがあった。
大きな通りから外れた、庶民的な商店街。
「夏樹、もしかして」
「へっへえ、やっぱばれちゃいましたか。そうっす、あの親父さんの店に行きます」
楽しそうに言う夏樹に、微笑みで答えるシュウ。
しばらくすると、そんなに日にちはたっていないのに、何故か懐かしく感じるあの洋食屋が見えてきた。
新生『はるぶすと』をオープンしたときに始めた、変則シチュエーションディナー。
その第1号をお願いした、滝之上 志水さんがリクエストした料理を伝授してもらいに訪れた洋食屋だ。
「いらっしゃいませ~。けっこう早かったんだね」
「冬里、もう着いてたんすね」
「うん、もっと時間がかかるかと思ってたから、先にオーダーしちゃったよ」
「はい、その方が俺も気が楽です」
本屋にいなかった冬里がここにいた。
夏樹が冬里の向かい側に座る。シュウは冬里の隣に腰掛けながら聞いた。
「本選びには、参加してくれなかったんだね」
「うん、夏樹はシュウをご指名だったからね。それに、ひとつ用事をかたづけなくちゃならなかったから」
「用事?」
問い返すシュウに、冬里ではなく夏樹が珍しく顔を近づけて小声で言う。
「大会議のはじまりを告げる、大切な余興ですよ」
「大会議、余興? ……ああ」
思い当たる節のあったシュウが、頷いて納得する。
暦は10月に変わっている。
10月と言えば、出雲大社以外の土地は「神無月」と呼ばれる、いわゆる神さまのいない月だ。
全国の神さまが出雲大社に集まるので他の地域は「神無月」。それに対して、出雲国だけは神さまがわんさといらっしゃるので「神在月」と呼ぶらしい。
けれど実際、神さまには時間も空間も関係ないので、いわゆる人の勝手な思い込み、と言えば身も蓋もないが、そういうことだ。
だが、神さまが出雲大社に集まって会議をするのは本当のことだ。
しかし会議と言っても、楽しいこと好きの神さまが、眉間にしわを寄せて難しい顔であれこれ議論するわけではない。
なごやかでおだやかな集まりだ。
その大会議の前に、《あまてらすおおみのかみ》が恒例となっている舞を舞うことになっている。
そこでの演奏に指名されたのが冬里だった。
《あまてらす》は、以前に★市神社で異例の舞を舞ったときに演奏した冬里の横笛が、たいそう気に入ったらしい。
「今年はお前が来てくれぬかの」
と言う、今朝突然来た依頼に、「いいよ~」と二つ返事で冬里がOKしたと言うわけだ。
「で、行ってきて、帰りはこの前まで送ってもらったんだよね」
と、洋食屋の入り口を目で示す。
「それはお疲れ様だったね」
ねぎらうシュウに、肩をすくめてニッコリと微笑む冬里。
そこへ女将さんが料理を運んで来た。
「お待たせ。で、あんたたちはまだオーダー聞いてなかったね、ごめんねえ」
「おお!」
冬里の前に置かれたのはオムライス。
非の打ち所なく美しく巻かれた卵の上に、ケチャップソースがこれも見事な配分でかけられている。
「さすがは親父さんっすね、美味そう。けど、俺は今日はこの、トウフカツレツっていうのにしてみます」
「私はこれと同じ、オムライスを」
「はいはーい、かしこまりました。ちょっと待っててねえ」
相変わらず明るい女将さんが行ってしまうと、夏樹が店をぐるりと見回した。
ちょうど昼時も終わり、客は彼らだけになっていた。
「俺、ちょっと厨房見せてもらってきます」
ニシシと笑いながら女将さんの後を追って、カウンターから厨房に声をかける夏樹。
「なんだ? 厨房が見たいだって? おい、客は? あんたたちだけか、しょうがねえなあもう」
中から親父さんの大きな声が聞こえてくる。
「ほい、あっちから回りな」
「はい! ありがとうございます!」
許可をもらった夏樹が、いそいそと厨房へ入るのを見た冬里が、シュウに話しかける。
「で? 本はきちんと選んであげたの?」
スプーンに巻かれた紙ナプキンを外しながら冬里が言うと、シュウは少しうつむいて、とても嬉しそうに微笑んだ。
「なに?」
「いや、本は夏樹自身が選んだよ」
「そうなの? それでそんなに嬉しそうなんだ」
そう言ってオムライスを一口食べた冬里が、珍しく「美味しい」とつぶやいた。
「あとを付いてくるだけだった雛が、とうとう親離れする時が来たんだねえ」
そのあとはいつもの冬里だ。
「そんなたいそうなものでは、ないよ」
苦笑しつつ言うシュウが言葉を続ける。
「中身をよく見もせずに私に聞いてくるものと思っていたんだけど。しっかり自分の目で見て確かめていたから」
「ふうん」
コトン。
すると冬里の前にサラダボウルが置かれる。
「ごめんなさいねえ、サラダ持ってくるの忘れてたの」
女将さんが恥ずかしそうに首をすくめて言う。
「すまないな、おっちょこちょいでよ」
厨房の中から親父さんもすまなさそうにしている。
「いいですよ、ちょうど身体が野菜っぽいものを欲していたので」
「まあ、お上手ね」
ポン、と冬里の肩のあたりを軽く女将さん。
だが、サラダが置かれたときから、冬里もシュウも少し引き気味だった。
「量を間違ってません?」
ニッコリしながら冬里が指さした先には、大きめのサラダボウルに盛り付けられた山盛りのサラダが。
ただ、とてつもなく美味しそうだ。
「お詫びの印ってもんだ」
そう言って豪快に笑う親父さんには、逆らえそうもない。
そこで苦笑しつつシュウが言った。
「でしたらすみませんが、私はサラダ抜きでお願いします。これを2人で頂きます」
「え? 遠慮すんなって」
「遠慮はしていません。さすがにこの量は1人では食べきれません。せっかくのご厚意を残してしまうのは失礼なので」
すると親方は、「あちゃー」とか何とか言って苦笑い。
「あんたはすましたツラして、はっきり言ってくれるねえ。まあそこがあんたの良いところなんだけどな」
「申し訳ありません」
「いいって事よ、ありがたがっといて残される方が腹が立つ」
そしてまた豪快に笑って料理に戻る。
しばらくすると、夏樹がウェイターよろしく、シュウの注文したオムライスと自分のトウフカツレツ、そしてライスの皿を掲げてやってくる。
「お待たせしました」
丁寧にテーブルに皿を置く夏樹に、シュウが礼を言う。
「ありがとう」
そのあと自分の席にもカツレツとライスの皿を置く。
トウフカツレツの付け合わせは千切りのキャベツだけ。ただ、その千切りの美しいこと。繊細かつふんわりとうずたかく盛り付けられているそれは、機械で切ったかのように細くて揃っている。
「さすがは親父さん」
「綺麗ですよね」
冬里と夏樹がうなずき合って言うと、シュウも無言で頷き、「いただきます」と、手を合わせた。
「これ、見て下さいよ。トウフカツレツって、多分そうだと思ってたら、やっぱり豆腐だったんです。美味そう~、いっただきまーす」
夏樹は早速そのカツレツを一口頬張った。
そして、うん? と首をひねり、もぐもぐと口を動かして何故かぱあっと明るい顔になり、ゴックンと飲み込んで「なんすかこれ!」と、感想を言った。
「どしたの?」
「これ、チキンじゃないすかあ、本当に豆腐っすか? って俺作るところ見てたんで、豆腐であることは間違いないんすけど」
厨房にいる親父さんに聞くと、親父さんは嬉しそうに答える。
「どうだ、美味いだろ。豆腐は大豆で出来てるのは知ってるな? 日本では大豆は畑の肉って呼ばれてるんだ。工夫次第で美味いカツレツに早変わりだ」
「ほんとっすね!」
そのあとも一口食べてはうなったり喜んだり。
また夏樹の料理魂に火が付いてしまうことになりそうだ。
「はい、取り皿置いておくわね」
サラダは2人で食べることにしたので、女将さんが取り皿を持ってきてくれたのだが。
「あれ? これは2人分なんだけどなあ」
気を利かせて3枚ある皿に、夏樹が嬉しそうにサラダを取り分けようとすると、冬里がすかさず待ったをかける。
「う、ぐぐぐ」
「冬里……」
結局、夏樹の羨ましそうな視線に負けて、サラダは3人で分け合うことになった。
「うわ! このサラダソース、上手いっす!」
「うん、どの野菜の味も生かすいいソースに仕上がってる」
「仕事の丁寧さでは、私たちなどまだまだだね」
美味しいランチのあと、思っていたとおり夏樹の目の中に炎が燃え上がっている。
「親父さん! お客さんがいない時で良いんです。あの、トウフカツレツの作り方、伝授して頂けませんか!」
最敬礼を繰り出して熱くお願いする夏樹。
「おい、またかよ」
「すんません、けど、どうしても!」
すると親父さんはあとのセリフを手で制して言う。
「わかった、皆まで言うな。教えてやるが、ただし、抜き打ちで食べに行くからな、不味かったら承知しないぞ」
「ありがとうございます!」
嬉しそうな夏樹に、親父さんは言う。
「まあ、うちの店はあとを継ぐやつがいないからな。お前さんが1つでも俺の味を継いでくれるってんなら、これほどありがたいことはないぜ」
「親父さん! だったらレシピ全部!」
「あほか。それはあんまり厚かましすぎだろ」
「テヘヘ、そうっすね」
とまあ、和やかなムードで昼食はお開きになった。
「んじゃ、早速始めるか」
「へ?」
「なんだ? 覚えたいんだろ、トウフカツレツ。ちょうど客も来てないし」
「え? いまからあー!」
そんなわけで、夏樹はひとり修行のために店に残ることになった。
帰り際、冬里が女将さんを呼ぶ。
「はいはい、なあに」
「これ、授業料の代わりです」
差し出したそれは、親父さん大好物の、栗きんとん。
もともとお土産として持ってきていた物だ。
「あらまあ、あらやだ。そんなつもりで言ったんじゃ、じゃあお代金払うわよ」
「ああ、それがですね」
「?」
「これはランチに付いているスイーツなので、値段がつけられないんですよ」
「あらまあ」
「うちの末っ子がお世話になることですので、どうか受け取って下さい」
冬里の言い方に楽しそうな女将さん。
「あらまあ、彼が末っ子なの? まあまあ、素敵なお兄さんをお持ちでいいわね」
「はい、それはもう」
「まあ、そこは謙遜して、いえいえ、とか言うものよお、もうホントに」
そう言って冬里の腕をポンと叩くと、女将さんは嬉しそうに栗きんとんを受け取ってくれたのだった。