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 会計を済ませ外に出ると、夜の涼しさと夏の暑さがいい具合に絡まって心地良く感じた。駅前の喫煙所が目に入ると、「ちょっと煙草吸ってきていい?」と小林は尋ねる。比奈は当然のように頷き、そして小林について来た。


「いいの一緒についてきて?」

「え、何が?」

「服とか匂い付きそうだけど」

「私、そういうのあんまり気にしないから」


 なんてことはない表情で比奈はついて来た。


「私ね、ずっと普通が嫌いだったの」そう話し始めたのは、小林がポケットから煙草を取り出して火をつけようとしていたときだった。


「小林くんとは中学違うから知らないと思うけど、中学のときの私ってもっと真面目で清純派みたいなイメージがあったみたいなの」

「今も随分真面目に見えるけど」比奈になるべく煙がかからないようにとそっぽを向いて煙を吐く。吐き終えた後で表情を窺うと、「え、嘘?」と魚のように目を丸くしていた。

「え、今の私も真面目なの? 服装とかも結構気を遣うようになって、髪も黒髪ロングからショートカットに変えたのに?」

「それは外見がでしょ? 中身はやっぱり変わってないんじゃない?」比奈は自分の認識と周りからの認識が違うことに気づいたようだった。「そっか」と呟き、少し落胆しているようだった。


 しかし、俯いた訳ではなく、何処か遠くを眺めるように夜の都会の空を仰いでいた。その横姿を煙草を口に咥えながら眺める小林は、あの頃の自分のことを思い出しているんだな、と確信した。


 フォローの意味もあったのかもしれない。「ビジュアルなんて見せかけだよ。頭のいい人ほど馬鹿のふりをするし、もっと上で通用するスキルやセンスを持っている人でも、一つ下に照準を合わせて狙ったりもする。世の中のほとんどのことなんて自分の目には映らないでしょ? 大好きな彼女が今何をしているか、高飛車なイメージの芸能人は本当に高飛車な私生活を送っているのか、自分が笑っている今もどこかで誰かは死んでいるのだろうか、とか。そういうのって自分の目には見えない。他人からこうだよ、って聞いたところで自分の目で見ていないんだからそれが事実かどうかわからない……。そう考えると何が普通かって、そもそも曖昧(あいまい)だよね。だから、比奈にとっての普通は、どっかの誰かにとっては普通じゃないかもしれない、ってこともあり得るんじゃないかな」


 酔いは覚めてきた方だったが、思ったことを順序なく口にしたことで話の終点が見当たらなくなった。論理的な文章ではないが、それでも小林の言葉は比奈に「慰めている」「優しい」という印象を与えたのかもしれない。比奈の(まぶた)が、ゆっくりと横に細くなるのが見えた。細い瞼の間から黒い瞳が覗き、街灯の光に反射して光っている。それが涙、だと気づくまでには数秒の時間を要した。


「可愛くいたいも、美人でいたいも、他人とは違った価値観でいたいとか、せめて天邪鬼(あまのじゃく)でいたいとか、そういうのって大事だと思う。でもそれを見てる周りの人間たちは、思った以上に大したことない。だって、見かけに騙されてるんだから。比奈が可愛くいれば音は真面目だったって気づかないし、美人でいれば、昔は清純派だと思われていたこともばれない。そういうなんというか、人間の仕組み? っていうのかな、そういうのを知った人は大体が周りのことなんて気にしなくなるんだよ。だから、愚直で、馬鹿真面目な比奈が、」そこで小林は息を呑んだ。危うく口走りそうになった。必死に代わりの言葉を探す。比奈が、「比奈が何?」と訊いてくる。


「比奈が、美しいと思う」


 美しいという言葉は便利だ。可愛い、美人、とは違った色気がある。そして、美しいという言葉は芸術的な意味も(はら)んでいる。単に容姿を誉めた印象を残さない少々固い言葉。


 しかし、小林に嘘はない。確かに、「美しい」と思った。


「さっき、好きな人がいるって言ったでしょ?」

「うん」

「俺が、比奈とその人くっつけてあげるよ」


 他愛もない会話から発展する非日常的なその一言を求めて、世の人間たちは試行錯誤し錯綜(さくそう)する。それこそ恋愛の醍醐味であり、人間の感情を揺さぶる。耐えがたい心臓の跳ね方、想い人は今どこで何をしているのか想像せずにはいられない。想い人が自分の頭に棲みつき、そして日常になった。


 いつか一緒になれる日を夢見て、倦怠期など恐るるに足りないと言い聞かせる。だって私たちは両想いなんだから、と街を二人で歩く未来の姿を妄想する。一緒に同じ屋根の下で寝床を共にする妄想をする。


 心が躍らされるのはRPGと似ている。一人称の恋愛小説内に溶け込み、主人公の体験をさも自分がしたかのような錯覚に陥れる感覚と似ている。


 大概のRPGや恋愛小説は終点に向かって出発する。その終点とは何処を指しているのだろうか。それに気づいたとき、小説に具されてもおかしくないほどのおもしろい時間を、自分が今生きているのだと初めて理解する。





 比奈が好意を寄せている男性は、どうやら以前から比奈にアプローチをしていたようだった。そのアプローチの仕方が比奈には気に入らなかったようだった。ナンパ目的で近づいて来、その男性は単純明快に言ったらしい。身体が目的だったと。


 ナンパとはそもそもそういうものではないか。知っていれば割り切ることぐらいできる。なぜ比奈はそれに嫌悪感を抱いたのか。それは、目の前に現れたナンパ男が、立っているだけで色気を放つ、少女漫画で言えば一目惚れ、突如現れた白馬に跨る王子様だったから、と言ったところだろう。惚れたにもかかわらず、身体目当てという自分が嫌いな特徴を持ち得た男性だった。だからその狭間で悩んでいたのだった。


 比奈は男性のナンパを断り続けていた。しかし、家のベッドの上でその男性の(たたず)まいが脳裏に浮かぶ。それほどの佇まいから受け取れる色気だったのだ。


 しばらくすると、執拗に迫って来ていた男性の口説きもぱったりと消える。急に自分に興味がなくなったかと思うと、比奈は空虚を感じた。なんだ、このもやもや。そのとき比奈はそれが恋だと悟った。


 急に興味がなくなったように口説くのをやめたのは、ナンパ師の思惑か、それとも単に興味がなくなっただけなのかよくわからないが、それでも比奈が恋をしたという自性には勿体をつけるつもりもなく、事実であろう。


 恋をした。

 だから付き合いたい。


 その理屈と流れが小林にはよくわからなかったのだが、好きな人と一緒に居たいという気持ちは、想像すればわからなくもなかった。


 簡単な心理学を使ったアドバイスをしようとしたが、やめておいた。比奈が馬鹿真面目だということは心得ている。そんな馬鹿真面目の女性に心理学を使ったテクニックみたいな嘘まみれのアドバイスをするのは気が引ける。馬鹿真面目な奴は馬鹿真面目に勝負すべきだ。人間なんて邪念と欲望しか流れてない血管の生き物だ。唯一対抗できるのは純粋無垢な馬鹿真面目な人間だけ。


 そもそも、信用できるから振り向くわけで、嘘をつく人間たちが誰かに信用してもらいたいからと使うテクニックが心理学であろう。元から信用できる嘘のつけない馬鹿真面目には、そんなテクニック不要。ましてや、恋愛のれの字も知らない小林の目から見ても、比奈は平均は越えた女性だ。それに、恋愛に耐性がない比奈が、うぶでないはずがない。純粋にうぶなアプローチでも仕掛ければ、女を無意識に下に見ている男からすれば、百発百中で網にかかるだろう。


 そう。そんな人間が世の中にいるのだ。自分が好きだと言えば百発百中で捕まえてしまう馬鹿真面目な女が。


 現に小林は言われたのだ。「私は私をそのまま彼に伝える。そこに嘘はないから、それでも振り向いてもらえなかったら、仕方がない」と。


「好きに仕方ないとかあんの?」

「ないって言いたいけど……相手の人生もあるわけだからそこまで無理強いはできないよ。だから仕方ない、ってこともある」その辺は割り切っているようだった。


「まあそのときは、好きな人を嫌いになる、もとい、脳裏から消し去る方法を教えてあげるよ」小林は何となしに言った。「大丈夫。嫌いになんてなれないから」そういうところが純粋すぎて目が眩んでしまいそうだった。世の中の嘘を何も知らず、目に映ったものがそのまま真実と受け取れてしまう、疑うことを知らない人間の魅力。


 どうしたものか。きっと小林が一般男性だったら、比奈のことを守ってあげたいと思うのかもしれない。




 それから二日して連絡が来た。「無事付き合えました」というインスタのメッセージは、絵文字が使われていない。半角のエクスクラメーションマークが一つ立っただけの簡素な文だった。やけにガラケーやらワープロを想起させ、()()びを感じさせた文だった。


 自宅アパートの最寄り駅の喫煙所で、煙草を吸いながらそのメッセージを目にした小林は、ふと空を見上げた。高架下から覗く都会の夜空は、それほど悪くない。耳障りな雑踏や生活音も、月明りがすべて吸収しているようだった。アニメでUFOに連れ去られる人間の様みたいに、雑音をゆっくりと機体に上昇させ、地上ではノイズが緩和される。


 満月には少し足らない月齢だった。どこかで比奈も同じ月を見ているのだろうかと想像する。「月が綺麗ですね」とたとえを使ったのは夏目漱石だったっけ。清少納言だったっけ。忘れた。


 小林はふと思いついたその例えをそのままインスタのメッセージに打ち込んだ。


 しかし、数秒悩んで消した。今綺麗なのは月ではないと思ったからだ。


「月なんて見上げてないですよね」


 意味の分からない文章を打ち、送信ボタンを押す。すぐに既読がつき、「え、見てるよ。きょう、月綺麗だね」と返信が来る。


 比奈が夏目漱石か清少納言だったら、きっとそれは告白なのだろうな――吸った煙草の煙を視界の月に向かって吹きかけてやる。白い(もや)がかるがそれは一瞬のことで、すぐに煙は消えて元の月の色に戻った。


「俺は月みたいに(きたな)いものを浄化できねえんだよ」


 小林の呟いたネガティブな言葉は、やはり、月に吸収されたようだった。喫煙所周辺でその声に耳を傾けたものは一人もいなかった。


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