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全身に傷を作り、下着もつけずに出た田村は、その夜そのまま一晩を明かした。「働け」と父親に尻を打ち付けられ、「顔以外は傷つけてもいいんじゃない?」と張り切る母親は、その日担当に「金がないなら、いらない」と愛想を突かされたそうだ。吸っていた煙草を白いへその上の皮膚に押し付ける。「へそぴとか似合うんじゃなーい?」その声音。
「働かないとこの家に置いてもらえないってことですか?」
たりめーだ、と父親が罵った直後、左足を蹴り上げた。そのまま空中で脚ばさみでチョークに入る。身体が重くなった感覚を得てから母親の方に向いた。怖気づいたのか粋がったのか、母親はライターを地面に叩きつけた。そのライターを拾う。羽織いじめにして、瞼、口、首の下あたりをあぶった。痛みの反射で暴れる母親を田村は離さなかった。
「ボディピアス、似合うんじゃないですか?」
途方もなく歩いていたとき、見つけた公園のベンチに座り込み、朝日が昇るのを見届けた。海岸沿いに行ってみたい。そんな突拍子もない思いから、駅に向かおうとした。場所はまだ覚えている。中学の頃、唯一話しただろう同級生が語っていたところだった。彼が当時読んでいた小説の舞台らしかった。いつか一緒に行くため、調べていいたものの、結局行かずじまいだったが、今でもその道順は覚えていたのだった。
その電車内で、小林京、田村里実は偶然出くわしたのだった。
そこで二人が何を交わしたのかはわからないが、二人に動機はあった。
匿名での誹謗中傷。
中学時代の陰湿ないじめ。
傷は深かった。
更生の余地はなかった。松村京谷に関しては誹謗中傷というよりかは自分の意見を述べているという意味が散見されるが、田村里実に関してはただただ悪質だった。表の顔は清純派で、裏の顔は毒々しい。田村とは真逆だった。田村は表の顔が不良で、裏の顔が清純派みたいなものだったからだ。
見た目で判断されるのは悔しい。匿名で粋がるサーフィンをする猫。
変わっていった世の中の景色。
刀が言葉になり、袴が情報になり、まげがスマートフォンになった。
変わっていった人間の心。
国のため、殿のため、家族のため。
自分のため、自分のため、プライドを守るため、誰かを傷つけないと生きていられない。つまらない。
「まるで幕末の景色だ」
「幕末を生きてたみたいな言い草ね」
「前世は坂本龍馬かもよ?」
「お龍になりたかったものね」
皆が自分の利益にばかり目を向け、良心的という言葉を知らない。漫画の仁で、南方先生の良心に逆恨みして罪を擦り付けたり、ペニシリンや製造所を燃やす刺客たち。殺し合いのない未来を夢見た龍馬は暗殺される。
まるで現代だった。
不倫が良いことだとは言わない。まるで図に乗っている人を失墜させるためだけのハニートラップばかりだ。同情を買いたかったのにタイムラインに批判が散見される。金が欲しくてネタを売るなら風俗行け。お前は人を選んでる、下衆だ。嬢に失礼だ。
女性軽視だ――自分の思いを発信すると炎上する。なんか気に入らないから、なんかイライラするから、そういう理由で糾弾することが増えたのは匿名だからだ。SNSが身近だからだ。手軽だからだ。日常生活ではとても言えないことを、鬱憤を晴らすように書き殴る、送り付ける。芸能人の宿命。高い金貰ってるんだから。芸能人も人間。ナイフで刺せば血が出る。言葉然り。それを知らない。
人の私生活を丸裸にして、昼間からあーだこーだ議論しているコメンテーターを眺めていると、よくわからない感情になった。怒りでもない、恨みでもない、妬みでもなく、ざまあみろでもない。
知らなくて良かったこと、知らないままでいた方がよかったこと、これは世の中に溢れている。彼女の浮気を知らなければ幸せな生活が続いていたはずだ。今日で最後、そう彼女が決めていた日に彼氏は浮気現場を目撃した。「お前の彼女、男の人と歩いてるけど」友人は電話で教えてくれた。友人の優しさが胸に染みる。しかし、本当に優しいのなら、電話で浮気のことなど教えてもらいたくなかった。
好きなアーティストとアイドルとの熱愛が発覚した。熱愛自体は個人の自由だから好きにしてくれてよかった。問題はそれが表に出てきたことだった。思った通りネット上では炎上が起きた。批判の嵐、擁護派との争い。口喧嘩。罵り合い。ライン流出。面白がって加工、大喜利対決。自分にも知られたくないことの一つや二つあるはずなのにまるでそれがない、あるいは忘れてしまっているかのような物言い。言われたくないなら炎上するようなことをするな、という正論。
テレビをつければコメンテーターが騒いでいる。
SNSを開けば好みの情報ではなく炎上している事柄がタイムラインを覆い、流れる。不祥事を起こした相方を説教する風潮。シバターの救いたいシリーズを見て心を癒す。アッコにお任せのアッコさんの素朴な疑問に、周りの演者たちが「いやいやいやそれは」というつっこみが、心を癒す。
辻褄の合わない一言を糾弾。言い間違い、言葉尻を面白がって大喜利。こうではないか、というコメンテーターの想像が真実になる。出来上がった真実に、虚像や事実の火影は窺えない。
見なければいいのかもしれない――テレビを消し、アカウントを削除し、仰向けに布団の上に寝転がる。
ストレスは消えなかった。蟠りは消えなかった。時間が解決してくれるは嘘だった。一度その事実を知ってしまったら、当分の間はその嫌な気持ちに苛まれる。
ストレスを発散しなければ、パンクしてしまいそうだった。自分の身体が風船のように膨らんだ感覚を持ち、もう少しで破裂するような気がした。
各々がもっている感情の捌け口。威張る態度の不倫男を逆恨みした女性は、週刊誌に彼のプライベートを売った。SNS上でよく炎上する学者は、絶対に自分の言ったことを曲げず、めげずにリプライし続ける。プライベートを売られた男の嫁と娘は、散々人の目に晒された。リプライを返し続けた学者は、いきり散らしているアカウント主の個人情報を特定した。
そんな回りくどいことをしなくても殺せばいいじゃないか。
生きてはいるけど、心は死んでいる時代。じゃあ息の根を止めようが止めなかろうが一緒だわな。心臓が動いていること、これが何よりも一番大事だという価値観の時代は終わりだよ。できることなら死にたいってやつが世の中にごまんといることを、人は意外にも知らない。皆保険制度が破滅し、尊厳死、安楽死が認められ、各々が自由に寿命を決め、自由に人が死ねる時代。
そんな夢のような時代を待っていても来ないから。
社会に生かされている感覚は何ともじれったい。
田村里実を学生時代陰でいじめていた中村夢莉。
金持ちだから、という禁句を何度も発し、橋部琢巳を軽視していた松村京谷。
たった、
それだけ。
それだけのことが胸の小さなウィークポイントめがけて刺さり、苛まれる人間もいる。
何の狙いもなく投げたダーツの矢が、二本ともブルに刺さる。あらかじめブルを射抜くことが決まっていたかのように、円の中心の小さな的に吸い込まれる言葉の矢。
だから、俺の知らない俺のこと、私の気にしている私のことを。
言うんじゃねーよ。
口を縫った。かがり縫いだ。
「死んだ後もお前たちは一生話せない。夢で笑うこともできない。泣くこともできない。ろくでもないことをしゃべるために人には口がついてるんじゃねーんだよ。文章じゃなくて熱意で伝えようとしてたんだったらまだ許せるけどな」
水の入っていない水槽の中に、担任のスマートフォンを投げ入れた。バケツ一杯に汲んできた水をその中へと入れる。
「なあ、ロボトミー手術って知ってるか? 感情を失くしたり、頭をおかしくさせるためにはちょっと神経をいじくるだけでいいんだ。本当は寄生虫を頭ん中にぶち込んで、脳を巣食いにしてやりたいんだが、あいにく手元にない。手元にあるのはアイスピックさ」
小林は「ふっ」と力を込めた。三叉槍のようなアイスピックの先は、担任の後頭部に突き刺さった。眼窩めがけて突き刺したつもりだったが、どうやら貫通してしまったようだ。左右の目玉がちょうどアイスピックの先に突き刺さり、刺さったまま眼窩から飛び出た。残りの針の先は、鼻の頭を貫通して出てきた。
その状態でまだ生きていたようだった。三本の針が左右の目と鼻を突き破り、目に関しては飛び出てしまっていて、アイスピックの先に刺さっているため、団子の様だった。その状態で担任は恐る恐るといった風に、縫われた口の隙間を使って喋った。
「もし、脱獄できる方法を見つけたら、あなたなら、脱獄する?」
「見栄っ張りじゃなければ非常にムカつく言い草だね」
その直後、地面に崩れ落ちた。




