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順を追って説明する。まずこの事件は、令和二年五月十日に千葉県のある鉄道で起きた脱線事故から始まる。この脱線事故を仕組んだのは小林京だ――と言いたいところだが、脱線事故が起きた原因に関しては、彼はまったく関係ない。関係があったのは、その脱線した列車が脱線する数分前、そこに乗っていた田村里実という女性だった。
彼女は小林の中学時代の知人だ。素行が悪く、中学から髪を金髪に染めていた。教師に怒られることも多く、言っても聞かない彼女の態度に手を焼いた、と当時の教師に取材したところ、聞いた。一方、小林は荒れているということもなく、非行少年といった様子も見られない、普通の学生だったという。他の人に比べ友人と話す光景はあまり見られなかったが、どこかクールで、その雰囲気が陰で人気があったと当時の同級生たちは口を揃える。
そんな正反対の彼らがなぜ友人関係になったのか。聞くところによれば、同居していたという声もあった。双方片親で、親が家を空けることは多々あったようだが、丸一日親が家を空けるということはどちらの家にも見られなかった。小林の母親は、明け方三時ごろには家に帰ってくるという情報がある。田村の父親も、遅くても朝七時には帰宅して、朝ご飯を一緒に食べて出勤するといったような生活だったそうだ。だから、同居ができたとしても親には気づかれるはずなのだ。いや、気づかない可能性もあるかもしれないが、気づかれなかった、と考えるよりは、双方の親が把握していたと考える方が自然ではないか。
とにかく、二人は仲が良い間柄だった。学校でも二人が話し合う姿が何度も見られている。
そんな田村が、ある日失踪した。そして現在、未だに見つかっていない。そんな彼女と偶々列車内で鉢合わせたのだった。
なぜ、何十年も会っていなかった知人の顔がわかったのか。これは、田村の記憶力がすごかったと説明する他ない。田村は失踪してからもずっと小林のことを思い続けていた。女性というのはそういうのには敏感だ。誰かと街でばったり出会ったとき、「○○だ!」とわかってしまう。私もそんな経験があり、確かに、と頷けた。
やばい……今、電話がかかってきた。もちろん出てはいないが、時間が切迫している。もう少し簡潔に書く。
田村里実が失踪後どこで暮らしていたのかは、正確にはわからないが、東京のある商店街で見かけたという目撃情報が多数あったことから、田舎から東京に上京して、居候のような形で暮らしていたのだろう。彼女はいつも同じ服を着ていたという。デニムのジーンズに、量産系統の黒いパーカー。そして両手にぶら下がるスーパーのレジ袋。ネギや大根が頭を出していたそうだ。
居候先で、田村は召使いにされていたようだ。働かなくていい代わりに、家の中での奴隷のようなものだった。家事全般、を任されるようになってからは、居候先の母親は夜の帰りが遅くなった。父親は今まで通り朝帰りも多い。小学四年の息子と小学三年の息子の面倒を見るのは田村の役目だった。田村は持ち前のおおらかさで二人の子どもと良く接した。しかしまだ小学生だ。駄々をこねられると困ったものだった。○○が欲しい、○○が食べたい、確かに買ってくることはできる金が手元にあったが、食費雑貨等用としてもらっている生活費を、子どもたちの駄々の対象に使ってしまうと生活費が忍びなくなってしまう。そもそも貰っている額は少なかったようだ。父、母、双方夜遊びが激しく、自分のために金を使うことが多かったようだ。
「ごめんね。できないの」
それが田村の常套句になり始めた頃、子どもたちからも田村は気嫌いされるようになった。子どもは純粋だ、疑うことを知らない。父親が告げ口したのだ。
「あいつは奴隷だ。おもちゃと一緒。心がねーんだ」
それからの生活は酷いものだったらしいが、証言者も具体的には口にするのを躊躇った。それほど悲惨なことが起きていたのだろうと思う。
しかし、田村はそれを悲惨だとは思っていなかったようだ。自分が働かない代わりに奴隷になることで暮らしていく。飯はちゃんと食べれる。寝床はある。その二つがあれば彼女は何でもよかったのだ。
しかしよあそびが杉田良心たちはついに家にいれる生活費にまで手を出し創めた、生活費までなくなった彼らは田村に対して何をし




