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【ギルド】

「最初はさ、幸福と不幸、どっちも味わわせてやろうと思ったんだ。だから好きな人と付き合えるところまでもっていって、数日後にグシャッと花を潰してやるつもりだったんだ」

「それはどうして?」

「どうして?」意表を突かれたように小林は言葉を失い、黙った。言葉が見つからなかった。そもそも比奈にどうして幸福と不幸の両方を味わわせようと思ったのだろうか。


「どうしてだろう」そう言ってみても後に言葉が続かない。「どうして……」どうして俺は今そんなことを比奈に話そうとしたのだろうか。別に伝えなくてもいいことのはずだった。


 イワンの馬鹿――その単語が浮かんだのはそれから数秒後だった。


 ああなるほど、と思った。イワンの馬鹿、それが本当なら、自分の思惑は全部、比奈の馬鹿に跳ね返されてしまう。それを試そうと思ったのだ。きっとそうだ。多分そうだ。そんな気がする。そんな気がしてきた。


 人に好意を寄せる、そのことの魅力に、小林はまだ気づけていなかった。だから、自分が誰かを好きになった、そういう事象について本気になれなかった。第三者から見れば、誰かを好きになったと断言できる感情を小林が抱いていたとしても、「違う、錯覚だ」と小林は無理に思い込もうとしていた。「騙されるな、恋愛なんてただの錯覚だ」そう(かたく)なに唱え続ける小林は相当狂気だ。人が理由を作るときは、大抵が何かを隠したいときだ。「イワンの馬鹿」それを理由にして小林は本心を隠そうとしていた。


 素直すぎる人間が気づけば隣にいた。自分を醜く感じるときもあった。隣に真面目な馬鹿がいたから、俺は真面目でいてはいけない、真面目すぎるといつか騙されると思わずにはいられなかったのかもしれない。


 田んぼに張った水が、夜空の浮雲と山とを映していた。水に映る防風林。新緑が映る湖。塩の(かぐわ)しい匂いが夜風に乗って吹いてきて、海の近くにも水田があるという意外さに心が安らぐ。白神山地の奥地にある湖。緑色と土色の景色があたりまえの中で、突如現れた景色を映すほどの綺麗な水を張る湖。砂漠でオアシスを見つけたように、小林は比奈とのかかわりあいの中でそれを見つけた。


 しかし、その光景を傍目(はため)に、防風林を抜ければ、地平線が遠く広がる海の光景を目の当たりにした。日光浴でも海水浴でも森林浴でもないこれに、夜帳浴(よとばりよく)という名前を付けた。昼間に来るのと夜に来るのとでは抱く景観が違う。左手に水族館の建物。右に海辺へと降りる階段がある。二人はそこを降りた。降り立つと、潮の風と真っ黒な海が立てる波の音。ザー、ざー、という音がすぐそこから聴こえ、海辺に来たんだということを実感する。


「前に一回ここに来たことがあるんだ」波の音が近いせいで、消えてしまいそうな儚い声になる。小林は少し声量を大きくした。「前に一緒に来た奴は、海に向って何か叫んでた」

「何を叫んでたの?」

「大したことじゃないよ。流れ星を見て自分の願いを三回急いで唱えるとか、神社で願い事を唱えるとか、そんな大したことじゃない」


 でも本当は大したことだったのかもしれない。


「昔さ、消しゴムに好きな人の名前書いて全部使い切ると付き合えるみたいなのあったじゃん」それはどういう意味だろうか。そんなことを真っ暗な闇の中で浮き立つ波を眺めながら考えていた。波が近づいてきて、音を立てて(あぶく)を残し、引いていく。それは何度も同じように繰り返された。波はどうしてずっと()まないのだろうか。止まることはないのだろうか。風が止めば波も止まってしまうだろう。じゃあ風は止むことがあるのだろうか。無風流(ぶふうりゅう)な人などいるのだろうか。鮪は止まれるような状況にないだけってことか、そういう結論に達した。


「アイスクリーム頭痛って名前、なんかダサいよな」


「そう」比奈は素っ気なかった。


「なんか名前変わったらしいよ。寒冷刺激による頭痛? の一種になったらしい。ほら、真冬にチャリンコずっと漕いでると、頭が圧縮してるような、なんつーか、片頭痛みたいに頭痛くなるじゃん。あれと同じ部類らしい」そう言うと、驚いたように「え、そうなの?」と食いついて来た。「なんかアイス食べたくなっちゃったな」比奈がそう言ったとき、


「なあ、じゃんけんしよう! 俺に勝ったら奢ってあげる」と小林は言っていた。


 そのときの比奈の驚いた顔と「えっ!」という声がぴったりはまっていて、思わず笑ってしまった。


「俺は低い声の女性、魅力的だと思うけどな」

「それってどういう……」


 比奈が言葉を言い終える前に、小林は海に向かって叫んでいだ。あーーとか、うおーーーとか、ういいーーーといった擬音だ。大したことを叫んだわけではなかったが、隣で比奈が頬を震わせているのに気づいた。


 そのときやっと、「ああ大したことだったんだ」と、小林は確信を得た。



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