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いい年した若い男と女が、深夜とも昼間とも呼べない、いい時間に、滑り台を滑ってキャッキャしている。「いやー楽しそうだねえ」スマートフォンの画面を覗き、それを眺めながら音量を下げるボタンに触れ、シャッターを切る。カシャ、という音が存分に響き、ロケットの展望台の上から「いいもの見せてもらったよ」と彼らに向けて言葉を零した。
彼らが滑り台を滑り終え、稲荷山を去ったあと、小林は廃屋の中へと入った。クーラーボックスの中から氷菓子を一つだけ取り出し、食べながら猫のサーファーがいる風除室を抜け、二階へのエスカレーターを上る。ゲームセンターを横切り、フードコートに出た。対面側に連なるいくつかの店の内、ファミレスの中へと入った。厨房の床に敷かれた敷布団の上で寝ているかと思ったが、いない。店内のテーブルの隙間に敷かれたもう一つの敷布団。その上に彼女は寝転がっていた。
「ほらよ」と小林は彼女のケータイを渡した。「あら、拾ってこなくてもいいって言ったのに。落したのは自分のミスだからって、柄にもなく気を使ってくれた? なかなかいい男ね。私の彼氏にしてあげる」
「遠慮しとくよ。こんな廃屋で暮らしてる家無し金なし女は御免だ」
「じゃあどんな女だったらいいの?」
「昔のあなたかな」
「あらあ、正直なのね。お金持ってた頃の私と一緒になって、ヒモにでもなろうって魂胆ね。素直でよろしい」
もっと前の昔だよ、と言おうとしたがやめておいた。素朴に真面目に頑張り続けていたあの頃のあなただよ――――「頑張れ」そう言う大人が、その言葉が嫌いなのに、どうしてもその言葉に当てはまってしまう人がいた。彼女自身もその言葉を使って小林に部活やらを無責任に促したことがあった。そう、「頑張れ」が嫌いな理由は無責任だからだ。ありふれた言葉で、とりあえずこの言葉を投げかけておけばいい、そういうのが嫌いだった。
でも、彼女は違った。
普段から、厳格、という言葉が当てはまる教師だった。だから、頑張れという言葉はほとんど彼女は使わなかった。そんな彼女が一度だけ小林に使ったことがあった。
放課後になり、小林は教室に残って本を読んでいた。当時、哲学やら精神医学やらに興味を持っていた小林は、ニーチェ、フロイト、筒井康隆などの本を読んでいた。たまたま教室に用があって来ただけなのだろうが、教室の前の扉を開けた担任の彼女と視線が合ったとき、「不運だ」と思ったのは言うまでもない。段々と自分との距離を縮めてくる担任の顔から目を逸らし、「ああ、怒られるな」と思った。「怒る」それが彼女の常であり、性格であり、生き方で、教育だったからだ。それは周知の事実で、このクラスの人間なら誰もが知っていた。女王の教室の天海祐希と、黒の女教師の榮倉奈々みたいだ、とクラスで話題になったことがあり、それ以降、担任は陰で女王だの黒女だの、訳の分からない渾名をつけられていた。愚か者、という渾名がついたときは、もう何でもいいんだなこいつらと呆れた。
今の状況に、正直小林は迷った。部活の開始時間はとっくに過ぎている。同じ部活の友人には、すでに「病院へ行くから休む」と嘘の報告をしていた。だから、これから部活に行くという選択肢はなかった。あるのは、担任と口を利かずに帰るか、担任に「部活に行け!」と怒られて帰るかのどちらしかなかった。
いや、意地だ、本を読み続けてやる。そう思ったのは、なぜだかわからなかったが、一度そうすると決めてしまうと、後付けの様に言い訳が浮かんだ。そうだ、前に朝読書の時間に本を読まない生徒に激怒したことがあった。部活と本、どちらをとるのか試そう、そんな思いついた言い訳もその一つだった。
小林は、担任が声をかけてくるのを今か今かと身構えた。しかし、いくらたっても声をかけてこない。かといって本から目を外し、担任が何をしているのか確認するのも目が引けた。もう本は読んでいなかった。本に視線を向けているだけで、担任が今何をしているのか、何を想っているのかで頭がいっぱいだった。耐え切れなくなった小林は、横目で教卓にいるだろう担任の姿を見た。
担任は、確かに教卓にいた。しかし、教卓で何かしているということはなかった。
教卓に肘をつき、じっと、小林のことを見つめていた。びっくりして目を逸らすこともできた。実際小林は目を逸らした。しかし、もう一度確認するように担任を見ると、彼女はまだこちらを見続けていた。痺れを切らして「なんですか?」と訊くと、「いや、特には」と、女王だの黒女にしてはあり得ない表情をした。頬を持ち上げ、ほうれい線に熱い皺が寄る。口角が上がり、その表情が小林に「女性」というイメージをもたらした。仏頂面しかできないはずの担任が笑っている。奇妙だと思うよりも先にあっけにとられた。その口を半開きにして目を丸くする小林の顔を見たのか、担任も自分が笑っていることに気づいたようだった。「はっ」と声に出し、何事もなかったかのように元の仏頂面に戻る。その変化が面白くて、思わず小林は笑ってしまった。最初は仏頂面のままその笑いを聴いていた担任も、小林が壺に入ったかのようにげらげら笑うので、さすがに耐えられなくなったのだろう。
「もう! 笑わないでよ! 見なかったことにして!」
初めて聞いた声音だった。まるで友人にいじられて恥ずかしがる初心な女子中学生。笑わないでよと言われても、自然と笑いが込み上げてきて止まらない。過呼吸のような引き笑いを、小林はしばらく繰り返した。
「怒らないんですか?」と小林が訊く。「私だって怒りたくて怒ってるんじゃないのよ。教師だって好きなことのためにやってるわけだし」担任はそう答えた。「本読むのだって大事だし、私も本が好きだからってのもあるけど、それに部活がすべてじゃないしね。そりゃ、部活にもちゃんと出て欲しいけど、私が部活みたいな集団行動が苦手だからかな、一概に正しいとは言えない」
世の中って一概に否定できないことばかりよね、悩みが積もっちゃう、担任はそう言って頬を膨らませ、組んだ両手の甲の上に顎を乗せた。
「だから頑張って、若者」
だからの誤用も、あんたも若者だろという反論も、全部淑やかさに消えた。その「頑張って」という響きが耳に棲みついたみたいだった。
そんな新卒教師は二年で教師を辞めた。クラスメイト達が、卒業まで一緒じゃなくてよかったと喜ぶ中、なぜこの時期に辞めたのだろうと小林は疑問に思った。
すぐに答えは出た。
そんな昔のことを思い出していた。
テレビに興味のなかった小林が、テレビをつけるようになった。それがかつて自分の担任だったあなたのおかげだなんて、目の前にいるかつての担任、数年経った今とはいえ、面と向かっては恥ずかしくて言えたものではなかった。
「写真、撮っといたから」そう言い残して、小林は背を向けて立ち去った。
「また、そのうち顔でも出してよ。……私は出せないんだから。整形するお金も戸籍も何もない。でも気が楽ね、ここは」
彼女はケータイを開き、カメラロールを確認した。そこには若い男女が滑り台を滑る光景が映っていた。
泣こうと思えば泣けた気がする。母親が十数年前に生き別れた子どもたちの今の姿を見て泣く、それは容易いこと。しかし、彼女は母親ではない。だから泣かない代わりに、微笑んだのだった。教師時代に一度だけ学校の敷地内で笑ったとき。
あのときと同じ顔で。
ファミレスのフロアに敷かれた敷布団の上で。
ケータイを水槽の中へと放り投げた。




