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ロケットの中の螺旋階段を降り切ると、やはりというべきか溜息が出た。出た先に、頂上から眺めたローラー滑り台の入り口が見える。「中村やってくる?」と訊くが、「松村くんこそやってくればいいじゃない」と一蹴された。
駅にある運営事務局に向かうために、来るときに通った道を引き返した。「いい大人が迷子ねえ」と松村京谷が呟く。それが嫌みに聞こえたのか「うるさいなあ。私迷子になんてならないもん」と中村夢莉は反論した。
「まるで、カーナビつけようとする旦那を地図あるからいいよ、って阻止する嫁みたいだな」
「なにそれ」
「嫁は地図が読めないんだよ」
ということを言ったのも、先程の女性たちが言っていたことが原因だ。どうやら、我々がこの祭りに来る前に、迷子のアナウンスが流れたようだった。そのアナウンスで言っていた特徴が中村夢莉の風貌とそっくりだったことから話しかけて来たらしい。
「私たち毎年この祭りに来てて、毎年迷子の放送が流れることは珍しくないんですけど、今日のはちょっと変だったからよく覚えてて」
「どこが変だったんですか?」
「それが……」
彼女たちの言葉を思い出して思わず笑ってしまう。その放送を自分も耳にしたかったなあとまた笑う。
「なによ、ニヤニヤして、いやらしい」中村夢莉は頬を膨らませていた。その顔が可愛らしいと言えば可愛らしいのだが、再び先程の言葉が思い出されて、ブッと吹き出してしまう。
「もう! そんなに笑わないでよ。迷子になったのは私じゃないんだから!」
「わかってるよわかってる。違うよ。このアナウンスをしようとした奴がセンスあるなあって思っただけだって」
ロケットの中の螺旋階段で、「どこが変だったんですか?」という問いに、若い女性はこう言った。
「それが、迷子になった子の特徴をアナウンスするときに、なんかマイクの後ろの声を拾ってたんですよ。男の人の声だったかな。アナウンスの人が台本を読んでるんじゃなくて、後ろにいる男の人がアナウンスの人に直接耳打ちして話させてたっていうか。それで、すごく笑っちゃって。なんかコントみたいだったんですよ。迷子の子が二十代女性とか言うし、えっ二十代? ってアナウンスの人の素の驚いた声まで拾っちゃってるし、ね、みんな大爆笑だったよね?」もう一人の若い女性に同意を求めると、そちらの女性も「めっちゃ面白かった」と笑っていた。
「二十代女性の迷子かあ」と松村京谷は呟く。「彼女を大事に思う純粋な彼氏が心配してのことだったら微笑ましいと思うんだけどなあ」
「もうその話はいいから」
赤い鳥居の連なる石の階段を降り、石造りの橋を渡る。一世代前のアイドルの曲は有線から流れ続けていた。
「でもよかった。向こうの人の方からこの祭りにいるよって知らせてくれたみたいで」
「ああ、そうだな」松村京谷は曖昧に頷く。それにしても、なぜ、ケータイを落とした男性が、ケータイを届けようとしている中村夢莉の存在を知っているのだろうかと思った。それも、この祭りに来ていることを知っていたのだろうか。中村夢莉が、交番に届けている可能性もあった。もっと言えば、ケータイを落とした際に彼女は気づかずにそのまま通り過ぎた可能性もあった。もっと言えば、中村夢莉ではなく、他の誰かが拾っていた可能性もあったし、GPSやなんやらで探せる機能が今のスマートフォンには備わっているはずだ。なのに、なぜその男性は中村夢莉がケータイを拾って、それを届けようとしていることに気が付いたのだろうか。一縷の望みをかけて、この祭りで迷子のアナウンスをしてもらい、自分はこの祭りにいるということを知らせたということだろうか。それにしては小細工が過ぎる。GPSかなんかの機能で、ここに自分のケータイがあるとわかったとしても、なぜここにあるかまではわからないはずだ。
そもそも、そのケータイ電話に電話をかければいいだけの話だった。ケータイのロックがかかっていたとしても、電話は誰でも出ることができる。友人のケータイを借りるなり、公衆電話でかければいいだけの話ではないだろうか。中村夢莉の話では、男性のケータイを拾って以降、一回かかってきたきり、電話はかかってきていないようだった。
まあ、それもすべて、運営事務局に行けばすべてわかる話だ。ロケット内部の螺旋階段で出会った女性たちは、「運営事務局までお越しください、って言ってましたよ」と言っていた。
運営事務局のテントがある駅に続く、一直線の道のりに入った。距離にして三百メートル程度。この道沿いには、屋台は数えるほどしかなかった。チョコバナナ――ベビーカステラ――。電車でこの祭りに赴いた人たちが帰り際にちょっと立ち寄って、というための屋台のようにちらほらと店構えをしている。
人もまばらだった。祭りが終わる午後五時近くになればここも満員電車の様に人混みに変わるのだろうが、まだ時刻は正午過ぎだ。当然帰る人物など少なく、寧ろ今来た人物たちの方が多いようだ。松村京谷らが駅に向かって歩くのに対し、駅から彼らの背中側に向かって歩く人がほとんどだった。
駅まで歩き切り、すぐ右手に「運営事務局」と書かれたテントがあった。
「あの、すみません。さっきの迷子のアナウンスの……」と松村京谷が言いかけると、要領よく「ああ、そちらの女性が」と理解してくれたようだった。「似てる! 聞いてたのとそっくり!」と主婦のような女性は明るい表情で言った。
「それで、その彼女を探してた男性はどちらに?」
「それがね、どっか行っちゃったみたいで。こっちはこっちで仕事あるから少し席外してたんだけど、その間にいなくなっちゃったみたいで。あ、でもね、ちゃんと言伝頼まれてるから大丈夫」
「人を探してる人が言伝ですか?」
「言伝っていうか、洒落? 私もよくわからないんだよね。いきなり来て迷子の女性を探してるからアナウンスしてくれってうるさかったのよ。見た目はいい男っぽかったんだけど。まあそれはどうでもいいか。それで、もし自分がトイレに行ってる間にここに迷子の女性が現れたら、君の王子様はサンマルコの遊園地で待ってる、って洒落たこと言っておいて欲しいって言われたのよ」
「サンマルコってあの稲荷山にある?」
「そうそう。でももう何年も営業してないし、屋上にあった遊園地は取り壊されてるはずなんだけど……」主婦のような女性は顎を指で触り、「まあ、それぐらいしか私が言えることはないわ」と言った。テントの後ろにいた男性が彼女の名字だろう名前を呼び、これをやってほしいと頼んでいるようだった。「ごめんね、ちょっとやることがあるから」と追い払われた。
駅の駐車場の隅で二人は立ち尽くしていた。「どういうことなんだろう」と中村夢莉は参ったという表情だった。最近そんな表情の中村夢莉ばかりを見ていたせいか、女の子がそんな表情ばかりしていいものなのだろうか、と柄にもなく気遣ってしまう。
「とりあえず、祭りでも回ってみる?」と松村京谷は言ってみるが、彼女はそれほど乗り気ではない様だった。「うん……」と曖昧に答える彼女の顔は、若い女性が身なり耳元を着飾って街に出るということを知らないようだった。失敗だったな、と思ったのは、昨日、自分が遊んでいる間にもどこかで人は死んでいる、などとを言いつつ、彼女の善良な善意を偽善だとほのめかした言動だ。彼女が今、友人の橋部琢巳が行方不明になっているかもしれないというのに、そんなときに自分は遊んでてもいいのだろうか、と愚直に考えているのなら、ああ、変なこと言っちまったなあ、と後悔せざるを得なかった。人間なんて、みんな自分本位に生きればいい、それを伝えるために逆説を使ったことで、彼女は逆説の意味合いだけを真に受けてしまったのだ。素朴な女性。それは素敵で魅力的だとは思うのだが、何とも言えない。素朴で真面目な人間を、普段からそんな奴いない、と否定していたからこうなったのだろうと省みる。
「正直者が馬鹿を見ないように――」いつか聞いた教師の言葉が蘇る。思春期の中学時代、教師は漠然としていた大人の象徴だった。教育者、自分を雁字搦めにしようとしてくる身近な大人は教師ぐらいだ。親はまだ一緒に暮らしていて親近感があるが、教師は親近感もなく、他人の上に自分を拘束しようと教育という言葉を使ってルールや正義を押し付けてくる。自分の思うことを否定してくる大人が、思春期の自分には敵に見えた。そんな敵が、卒業式の離任式で言い放った言葉だった。たった一文だけの別れの言葉だった。
そんな昔の記憶を思い出し、馬鹿で素朴な中村夢莉に対しての自分の言動を、松村京谷は恥じた。言われても苦にならない人間と、言われると真に受けて素直に考え込んでしまう真面目な人間と、そこで言っていい言葉と言わなくてもよい言葉と、そんなことを考えた。
「中村って、こういう祭りとか行ったことある?」
「花火大会とかなら」
「都会で生まれた俺たちはさ、こういう地元の祭りって感じ、身近にないじゃん」身近にないから回ってみよう、と言おうとしているのか? 俺は、と思う。
陳腐だ、と思った。
こういうときに気の利いた言葉を言えない人間ほど無価値だと思った。普段から人に見せびらかす所以に洒落たことばかりを呟き、肝心なときに気の利いたことが言えない。本当に大事なときに、洒落たことを言えない自分。今まで生きてきた時間の使い方を、すべて否定したくなる衝動。何をやってたんだ俺は、と思わざるを得ない状況。
「ごめん」気づけば謝っていた。「俺は自分のことしか見えていない。他人のこととか考えず、自分の人生から排除して生きてきた。だから、気の利いた言葉のひとつも持ってない。ごめん。昨日、偉そうに自分の考えとか謳って、難しいこと話してるような雰囲気で説得力つけて、俺は頭いいからみたいな雰囲気醸し出して、お前にはわからないだろうって、そういうの嫌だったよな。悪い」
そんなことしか言えないのか、とやっぱり羞恥を覚える。普段から論理に染まった目で物事を見ていると、人の感情に関わる状況になったときに、恥ずかしいと思ってしまう。それはプライドが高いからで、感情論なんてくそくらえ、と思っていたという証明みたいだった。
素直に、素朴に、生真面目に。中村夢莉の姿を見てそう思って、自分もそうしてみようと思ったが上手くいかないようだ。やっぱり割り切るべきだ。他人はこうであるが、自分はこういう人間であるべきだった。そんな感情が沸々と湧き上がり、血迷ったな、と人生に完璧を求める心が、今の松村京谷の態度を唸って皮肉った。
そのとき、中村夢莉は「ふふふっ」と珍しく笑った。その表情が珍しかったのか、場違いだと思ったのかはわからない。とにかく、松村京谷は呆然としていた。
「珍しい、松村くんが珍しく素直でしおらしいなんて」
「それは、中村が……」
「私は好きだったけどな。頭が良くて、いつも私の言うことを否定してきて、でもその理由が、ああ確かに、って思えて、だから私は迷うの。自分が信じているものと松村くんが信じているものが違ったんだって思うから。どっちが正しいんだろうって。でもどっちも正しいかもしれないし、どっちも正しくないかもしれないもんね。私は気の利いた言葉なんていらないよ? 松村くんが感情任せにキザなセリフとか言ったら、気持ち悪いしね。うん、似合わないよ」
何も言えずにそこに突っ立っているだけの人間だ。陳腐なのは言葉ではなく、自分だ。中身は何もなく、空っぽの抜け殻の中に、肉片が敷き詰まっているだけの感覚。身体が空洞になっていて、その中で声を出せばすごく響くんだろうな、そういう空虚を虚無な心がボソッと呟いた。身体に響き渡った。
「金魚すくいとかあるのかな。夏じゃないけど」いつの間にか中村夢莉は笑っていて、手を腰の後ろで組んでいて、ゆらゆらと左右に揺れている。「まあ、私下手で、すぐ紙破れちゃうけど」
「馬鹿だな」虚無な心に何かが滲みていく。何もなかった空洞に、芽生え、広がり、色彩が咲いていく。
「紙破れてからが金魚すくいの醍醐味だろ」
「それルール違反じゃない?」
そのお道化た中村夢莉の顔に、人それぞれに自分のルールがあるんだって、と彩った心の中で呟く。
「正直者が優しい人が馬鹿を見る世界。常識は少し嘘をつくこと。いつかそれに気づく時が訪れます」離任式での担任の言葉が滲みた。私は好きで悪役教師の仮面を被ってるわけじゃないのよ、二十代の新卒教師の声が、そんな風に聞こえたからだった。