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最寄り駅を降りると、子どもが中に入れる大きなバルーンが出迎えた。既に祭りは始まっているようで、親子連れが散見された。駅のロータリーの出口に、神社の狛犬のように両側にキツネの造形物があった。高さは二メートル近く、白狐だ。
商店街をまっすぐ進み、千曲川をかかる石畳の橋を渡ると、屋台の連なりが窺えた。その人の多さに圧倒された。子どもがあちこち行き交い、有線からは軽やかなミュージックが流れ続けている。最近流行りのジェーポップかと思いきや、一世代前に流行ったアイドルの曲だった。
「本当にここに居るのかな」橋の上を渡っている最中、中村夢莉が言った。
「ああ、恐らく」そうとしか言えなかった。
ケータイを落とした男性を探しに来たわけだが、本当にこの祭りのどこかにいるのかはわからない。とりあえず、屋台の連なる通りを入っていくことにした。
まるで満員電車の様だった。満員電車に乗った人混みがそのまま移動しているかのようだった。肩が当たるのは当たり前で、何度か足を踏まれた。松村京谷はサンダルで訪れたことを後悔する。
「何か買うか?」
「いや……」
そのまま人混みに揉まれ、交差点にまで出た。交差点は広いせいか、屋台も少なく開けている。道中、人混みを歩いているせいか周りから視線を多々感じた。そのせいでより疲れた。二人は息を合わせたかのように溜息が漏れ、思わず目を合わせる。
笑みが零れた。
一通り屋台の連なる人混みを見て回ったが、例の男性は見当たらなかった。そもそも、この人混みの中で見つけろという方が難しく、人の流れに乗って進むことで精一杯だった。「自信はないけど」と中村夢莉は付け足した。確かに、見落としがないかと言われれば、嘘になるだろう。たった一度、数十秒あっただけの人物の顔、風貌を覚えていろという方が酷だ。
屋台で焼きそばを買い、二人は稲荷山に向かった。石畳の橋を渡り切り、右手に見えるのが稲荷山の様だった。入り口には白狐の看板があった。駅のロータリーで見かけたものとは別で、こちらは薄い看板だった。そこに描かれた白狐も、マスコットのような可愛らしいタッチだった。その奥に、石の階段が何十段、何百段と続いていた。赤い鳥居が二、三段おきに連なっており、その階段を上った。次第に赤い鳥居が消え、階段だけになる。辺りは木に囲まれ、木漏れ日だけになった。視界は暗く、涼しい。階段を上り切ると、廃れた神妙な雰囲気の小さな祠が見えた。その奥にまた、階段が続いていた。
奥の階段を上り、階段がなくなると小さな通路が顔を出す。緩やかな斜面になったその通路を上ると、完全に視界が晴れた。
見えたのは大きなロケットだった。見てすぐに思ったのは、大阪万博の太陽の塔だった。白基調に赤の横線。ロケットの形をした白い灯台のようにも思えた。近づくと、どうやらそのロケットの中に入れるみたいだった。「入ってみる?」と中村夢莉に聞くと、彼女は黙って頷いた。
中は、螺旋階段のようにぐるぐると回る構造になっていた。階段は狭く、二人が横並びで登るには少し狭かった。前にもこんなことがあったなと松村京谷は思い出す。それは、鎌倉の大仏の中に入ったときのことなのか、それとも大学の横にあった観音堂と呼ばれる建物に入ったときのことなのか、よくわからなかった。一つ言えるのは、その二つよりも階段が長いということだった。二倍近くはある、と確信する。後ろを歩く中村夢莉は息を乱し始めていた。無理もないだろう。男の松村京谷でさえも息が上がっていた。大学のエレベーターが混むという理由で乗るのを嫌い、普段から階段を使っていた松村京谷に言い放った橋部琢巳の言葉が思い出される。
「煙草吸いすぎなんじゃねーの」
ああ、そうだ、その通りだ。男だろうと俺の肺は女の中村よりも劣化している。その通りだ。肺で呼吸しているのを感じながら、橋部琢巳に向かって心の中で言った。
登り切ったとき、「やっとか」と無意識に呟いてしまうほど達成感があったと言っていいだろう。階段の踊り場のように開けたそこには、窓ガラスが横一列に並んでいた。東京タワー、スカイツリー、規模の大きさは違えども、あれに上ったときと同じような光景だ。その窓ガラスから見下ろすと、稲荷山公園の全貌が窺えた。今、登るときに入った入り口の反対側には、滑り台の入り口があった。滑り台の底が、いくつもの丸い筒のようなローラーになっていて、それが回る勢いで滑っていくタイプの滑り台の様だった。
二、三十メートル進んで踊り場に出る。左に再び滑り台があって、十メートル程度進むと再び踊り場に出る。右側にはまた滑り台があり、それはローラーの滑り台ではなく通常のものだった。ちょうど子どもたちがきゃっきゃっしながら滑っていた。ローラーの回る音がここまで届いてきていた。その先には、もう営業していないだろう古いデパートらしき建物があった。
「松村くん、あれ乗りたいの?」
「いや、中村行って来いよ。見ててやるから」
「私はいいよ」
その声は、自分だけ楽しんではいけないといったような意味が含まれているように感じた。きっとまだ、橋部琢巳のことが頭から離れないのだろう。
「どうする、これから」男性をどうやって見つけるかといった意味だろう。
「どうするか。迷子のアナウンスでもしてもらう?」
「男性の名前がわからないんじゃアナウンスのしようがないでしょう」
「ケータイの落とし物がありますとか言ってもらうとか?」
「来るかな、落したのは西巣鴨だろう?」
「もしかしたらここで落としたとか思うかもしれないし」
「いやさすがに現代人なら一日に数十回はケータイの画面見るだろう。もう気づいてるよ。でも、一応アナウンスしてもらってみるか。ケータイの特徴も一緒に言ってもらえば、俺のかもしれないってなるかもしれないしな」
とりあえずこの祭りの運営事務局に行くことになった。駅を降りたときに、白いテントに大きく運営事務局と書かれていたのを思い出す。
「じゃあ行くか」そこで登ってきた階段を下ろうとしたとき、下の方で階段を上る音が聴こえた。なぜか身構えてしまった。階段は狭く、下から誰かが上ってくる、ということが追い詰められた、といった切迫を覚えさせたのだろうか、よくわからない。とにかく身構えてしまった。
「どうしたの? 行くよ」中村夢莉は近づいてくる足音に関心がないようだった。恐る恐る彼女の後をついていく。一歩一歩が重かった。足音が近づいてくる。次第に足音だけではなく、話し声も聞こえ始めた。その声が若い女性の声だったせいか、気が緩んでしまった。ちょうど螺旋階段を二周したところだろうか。上ってきた女性二人と鉢合わせした。
こちらもびっくりしたが、向こうもびっくりしたようだった。軽く礼をして狭い階段をすり抜けていく。段々と足音が遠ざかっていく。ほっとしている自分がいる。しかし、その足音が止まった。再び近づいてくる音が背中を通して聴こえる。
「あの!」と言ったのは、若い女性の片方だった。
「もしかして、迷子ですか?」