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この先に待っているのが非日常体験だと思えてならなかった。それはどうしてか。そもそもケータイを拾うこと自体が珍しく、友人がそのことを相談してこなければ知らないで済んでいた話だからだ。その上その珍しいに加えてちょうど興味を示していた祭りのことについてケータイには書かれていた。この偶然と偶然と偶然の重なりは、必然が裏返って偶然となり、どう考えても非日常としか思えない。
新幹線の窓際から眺める景色は、いい具合に移り変わっていった。歩いているときには代わり映えがなく、早くもっと違う景色を見せてくれとさえ思うことがあるが、新幹線は違った。高い位置を走っているせいか景色が一望できる。窓から目を離し、ドリンクホルダーにあるペットボトルを手にして水を一口飲む。再びドリンクホルダーにペットボトルを戻し、「さて」と窓に目を向ければ、別の風景が広がっている。それに加え、電車のようなガタゴトとした煩い音がない。立っていなくてもいい、揺れに耐えなくてもいい。これを快適という他ない。
「そもそもなんでこの祭りに行こうとしてたの?」
「中村に言われたからだよ。自分の宿題」そう言うと、中村夢莉は納得したように「そう」とだけ呟いた。いつもならもう少し話が広がるはずだが、どうやら気分が乗らないようだ。そのまま黙ったままだ。恐らく、未だに連絡の取れない橋部琢巳のことを考えているのだろう。
「誘拐ってさ、」松村京谷がそう言うと、中村夢莉は素早く顔を上げた。まるで今自分が考えていたことを言い当てられたかのような素早さだった。そこで気づいた。橋部琢巳がいまだに連絡をよこさないのは、実は誘拐されたからで、連絡したくてもケータイを取り上げられているからかもしれない、なんてことを彼女は考えているのかもしれないと。
「誘拐ってさ、年に数千件確認されてるらしいんだよ。被害届だけで言えばもっと数倍多くなるんだけど、実際に姿を消したままの人は年に数千件。その人たちって今どうしてると思う?」
不謹慎な質問だ、と松村京谷自身少しは思った。が、気になるところでもあった。誘拐されて未だに見つからないのは、すでに殺されているから。殺されて、どこかの山に埋められているから。海に放られ、潮の流れで行方がわからなくなってしまったから。遺体が燃えてしまったから。どこかに生き埋めになってしまったから。考えられることはたくさんあった。
中村夢莉は黙ったままだった。まるで、橋部琢巳が誘拐されたという事実を半分受け入れていて、でも信じたくないかのように唇を噛み締めている。
「迎えられてどこかへ姿を消したってことはないのかな」
「どういうこと?」と彼女は呟く。
「いや、おかしいと思わない? 何十年も前から行方不明で未だに見つからないのってさ、やっぱりおかしいよ。今はDNAだとか監視カメラだとか警察だとか、それでなくてもケータイとかネットで常に繋がってる時代になったんだから見つからないのっておかしいと思うんだよ。そりゃ、確かに遺体が山に埋められたとかだったら、山菜取りのおじさんが偶然見つけない限りは、一生そこに埋まったままなのかもしれないけどさ、それにしても数が多すぎると思わない? 数千件だよ?
もしさ、誘拐されて行った先がさ、例えば、どこかの国だったとする。いきなり連れてこられて、あなたは神様です、ははーなんて崇められたら中村ならどう思う?」
「悪い気は……しないかも」
「もし、ひっそりと暮らす和かな民族の元に連れていかれたらさ、ネットの誹謗中傷が嫌で嫌で仕方なくなっていた人はどう感じると思う?」
「羨ましいなあとか、行ってみたいな、とか?」
「誘拐という名義で、出迎えられたんじゃないかなって。誘拐されて行った先の人たちが思った以上に優しかったら、そこが快適だったら、ずっとそこで暮らしちゃうんじゃないかって思ったりするんだよ。誘拐、じゃなくて、結果的には移住みたいな。誘拐の被害者は自らついていったんじゃないかって考えられなくもない。魔が差しただけかもしれないけど、ついていったら、今の日本よりも生き心地のする居場所だった。戸籍もないし。空想の被害者の視点で順を追っていくと、どうしてもそういう妄想になっちゃうんだよね。嫌で嫌で、死にたくてたまらなくて、もうどうでもいいやって誘拐された先には、テレビもケータイもネットもない。あるのは人間の温もりだけ。自給自足で毎日畑に出て、鍬を持っては帰宅して飯を囲う。そこには笑いしかない。そう考えると誘拐ってそれほど悪くもないんじゃないかって」
中村夢莉は首を傾げていた。「またそうやって話を逸らそうとして」とそこまで言いかけて息を呑んだ。「でも、もう死んじゃったのかもしれないと思うよりは、そういうことを考えてた方が気が楽かもしれない」松村京谷の言葉を中村夢莉はちゃんと聞いてくれていたようだった。
「小学校の頃の同級生のこととか思い出すことある?」松村京谷は問う。
「仲いい子はあれだけど、特に男子はもう思い出すこともないかも」
「仮にその同級生がすでに死んでたとして、でも今の中村はそれを知らない。飲み屋で学生時代の話になって、あいつどうしてるかなー、電話かけてみるかってなって、気づいたときにはすでに死んでる。なんか不思議と、そんなもんかって思っちゃう。自分の知らないどこかでは人が死んでるのに、まるで自分には死の実感がない。死体を見ないと実感できないんだろうね。不思議だよ、人間って」
そのとき思った。世界が不思議だというよりは、人間が不思議なのではないかと。隣の中村夢莉は俯いたまま何か耽っているようだった。ここで今「好きだ」と彼女に向かって心の中で呟いたとしても、彼女には伝わらない。彼女は何も知らず、ただ、自分の考えていたいことを考え続けるだろう。
そういう、どこかでは実際に起きていて、でも相手には認識されない齟齬のような噛み合わなさ。その美しさにいつも惹かれる。多くの人が彼女を揶揄する中、自分やその他少数だけが彼女の本質を見抜いている。多くの人が誰かを称える中、本当はそうじゃないと少数が見抜いている。しかし、それは決して口には出さない。心の中にだけ留めておく。
誰にも知られずに墓場まで行きつく想い。現実的にそんな思いなど価値はない。言葉は伝えてなんぼだ。なのに、それを知った上でも、誰にも伝わらずに誰かの心の中で反芻され続けた想い、言葉が、艶麗なオーラを纏って「美しい」と訴えてくる。