*
周りの人間が楽しそうに話している声が聴こえる。しかし中村夢莉はそれにつられて言葉を口にすることができずにいた。先程喧嘩別れのような形になってしまったためバツが悪く、どうやって切り出せばいいのか迷っていた。
反して、松村京谷はなんてこともない表情でオレンジジュースにストローを刺して吸っている。お前に怒られようと俺は何も変わらない、というその態度が気に喰わなかった。
「どうしてわかったの?」
「何が?」
「どうして私が駅のバス停にいるか分かったかって聞いてんの」
中村夢莉は未だに怒った態度で話していたが、松村京谷は気にしていないようだった。それどころか、「俺にはお前の居場所がわかっちゃうんだよ」とこの期に及んでおちょくってくる。身を弁えていないようだった。
「真面目に話してんの!!」苛立ちを抑えきれなくなった中村夢莉はテーブルを勢いよく叩いた。テーブルの上に乗っていたグラスやその他がぶつかり合い、大きな音を立てた。周囲の視線がこのテーブルに集中しているのが感じられた。別れ話か、という声が聴こえてくる。ありゃ男が浮気したな、修羅場だぞおい、なんて小声があちこちから聞こえてきた。
中村夢莉は気にしない態度を貫いた。それだけ苛立ちが大きかったのかもしれない。もう少し苛立ちの度合いが低ければ、「すみません」なんて周りに向かって頭を下げたかもしれない。しかし今はその度合いを超えている。
松村京谷は黙ったままだった。テーブルの上に零れたオレンジジュースを紙ナプキンで拭いている。中村夢莉がテーブルを叩いた際に跳ねて零れたものだった。
周囲の人間が見たら、怒りの矛先が向けられているのは明らかに松村京谷の方だった。本来なら、「すみません」と周りに頭を下げるのも彼の役目のはずだ。なのにそれすらせずに、飄々(ひょうひょう)とした態度を貫いていた。その態度もまた、癪に障った。
「ねえ、聞いてんの?」少し大きな口調で中村夢莉は訊く。まるでファミレス内の全員がその言葉に意識を向けているかのようだった。誰もが、男の方が怒られていて、どう反応するかに興味を持っているのだ。どこかで「浮気する男になんて躊躇はいらないわよ」という声がした。「やっちゃえ」と。みんな自分の味方なのだと悟った。アウェーなのは松村京谷の方だ。「ごめん、俺が悪かった」その一言が欲しくてじっと黙っているが、なかなか彼は口を開かなかった。
あの賑わいが醍醐味のファミレス内が、異様に静寂を保っている。この静寂の中で、半端な言葉は口にできないはずだ。口答えをすれば、先程の女性がまた小言を呟くだろう。他の食事をしている皆が、「自分が悪いって自覚できないのかね。たいそうなプライドだよ」と嘲てくれるはずだ。
やっと松村京谷が口を開こうとした。腕を組み、溜息を吐きそうな態度だ。誰もがそう思った。しかし、現実にはならなかった。腕をほどき、溜息をつきそうな態度なのにどこか柔らかい態度でこう呟いた。
「俺はスケープゴートか?」
それはどういう意味だ? とファミレスにいる誰もが疑問符を浮かべた。中村夢莉自身も何を言っているのだ、とちくるってしまったか、話題を逸らそうとしているのかとさえ思った。
「どういう意味よ」
「あ、いや、大した意味じゃない。まるで濡れ衣着せられたみたいな気分だなあと思ったから」
「濡れ衣なんかじゃないわよ。松村くんが悪いのは事実じゃない」
松村京谷はストローに口をつけた。喉仏が上下に動き、飲み干したのがわかる。「じゃあ言うけど」と面を上げて中村夢莉と目線を合わせた。
「喧嘩腰で話しかけてくる中村の方がよっぽど俺は悪役に思えるよ。これはさっき中村自身が言った、頭のいい奴が一生気づけないこと、っていうのに当てはまらないのか?」
中村夢莉はドキリとした。
「まるで俺が全部悪いみたいな態度でこられれば、俺が悪かったのかなあとか思わなくもない。喧嘩腰で話しかけられれば、自分の中にプライドがあって、意地がある人間なら自分のプライドと意地を守るためにこっちだって喧嘩腰にならなきゃいけなくなる。自分を守るためにね。世の中人間がぎょーさんいるんだから人の考えなんて千差万別でしょ? 別に犯罪に手を染めるとかそこまで悪事を働いた覚えはないし、だから批判されはしても、こっちが考えを変える必要はないと思ってる。考え方を押し付けて、周りの雰囲気に流されて、ちょっとしたことであーだこーだ騒ぎ立てて、それに同調して、自分の中で何が良くて悪くてって考える力をなくすことが俺の中で一番の悪事だ。そう考えることも自由だし、中村が俺を悪者扱いするのも自由の内だ。だから俺がとやかく言える筋合いはないんだけど、自分が正しいと思う考えを、価値観の違う誰かと共有したいと思うならもっと物腰を低くして来ないと駄目だと思わないか? まあ、仮にそうしたところでちょっとやそっとのことじゃ俺の中で築きあがった価値観はそうそう変わるものでもないけど。
忘れてないか? 自分の一言二言が相手の人生を変えてしまうかもしれないってこと。自分にとっての優しい一言は、真逆の価値観を持つ相手には傷付けている言葉かもしれない。そのことに、優しい言葉を投げかけて自己満足に陥ってる本人は気がつけない。それって、善者が嫌ういじめの特徴と同じだよね?」
「じゃあどうすればいいのよ。人と人とが同じ考えを共有することはできないってこと? じゃあ人間ってみんな一人で生きてるわけ? 自分の一言がいじめになるなら何も喋れないじゃない」
「それは俺の考え方だ。中村は違うだろう? 俺とは違う自分の信じた考え方があるじゃんか。俺は他人に自分の考え方を強要することはあり得ないと思ってる。あったとしても、せめてこういう考え方の人がいますよって教えるくらい。相手にこうしろとは絶対に言わない、言えない。それが俺の生き方だからだ。だからさっき押し付けるように言ったのは俺の不手際だから謝る。悪かった。
俺が今言いたかったのは、喧嘩腰ではなから俺のことを悪者だと態度に出してきてる人に、譲歩することなんて何もないってことだよ。人に影響を及ぼそうとしてる奴は、その影響を受けた相手の今後のことぐらい想像しててほしい。見切り発車で思ったことだけずけずけと口にして、自分が何も言わなければこうはならなかった、自分がこれを言ったから相手はこうなった、そういう予測……覚悟をしたうえで罵詈雑言でも叱咤でもして欲しい。それが相手の価値観を変えるってことの本質だ、ってのが俺の考え方。さっき話した通り、このことを中村に強要するつもりはない。ただ、こういう感じ方をする人もいるんだってことは、頭の片隅にでも置いておいて欲しい。俺が思ったのはそのくらいかな」
言い終えると、松村京谷はストローに口をつけた。一気に吸っているようで、グラスの中のオレンジ色の液体がみるみる減って、底をついた。グラス内の氷が、カラン、と音を鳴らす。その音が、ファンミレスの入り口のドアを開けたときに揺れる鐘の音と酷似している気がした。
思った通り、松村京谷は立ち上がった。無言でテーブルの上に札を一枚置き、「え、ちょっと」と呟いたとき、視線が合った。彼は大丈夫、とでもいうように両掌をこちらに向けていた。「いや、お金のことじゃなくて……」
カラン、と音が鳴る。入口の鐘の音なのか、グラスの氷が解けて揺れた音なのか、わからなかった。
「あらら、浮気して逆上していたのは彼女さんの方みたいね」
どこかでそんな小声が聴こえた気がした。