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さすがに、松村京谷も中村夢莉も不審に思った。思いはしたが、だからどうこうするというわけではなく、その点について松村京谷は未だに他人事だ。「そのうち来るって。ほら、小学生の頃とか何も言わずに引っ越したやつとかいただろう? それと同じだって。あいつんち金持ちだから、俺たちとはただの退屈しのぎの話し相手だったってことだよ」それが失言だった、と松村京谷は気づかなかった。中村夢莉が珍しく仏頂面になり、「金持ちだから何なのよ。金持ちだと庶民は心配もしちゃいけないわけ? それが友達に対する態度?」と半分叫び出しそうな勢いになっていた。
「事実を言ったまでだ。身分の差なんて生まれたときから決まってる。そこに友情だの思いやりだの労わりだの言われても覆せるわけねえだろう。それが身分。金が権力。お前は、大学で会った一人間のために自分の生活を犠牲にできるのか? 家族でもない、ただ、大学で暇つぶしに話していた相手のために自分の命を売れる覚悟はあんのか? あるわけないよなあ。あったら、今頃ネットでアンチヒーロー扱いされてるはずだよ。どこかの誰かに同情して人を殺すぐらいの覚悟あんのか? うじゃうじゃいる自殺志願者全員の命を救えるとでも思ってんの? 優しさで人が救えんのか? ちげーだろう。割り切るんだよ。家族の死は悲しめるのに、アフリカで戦死した子ども兵士のことは悲しめない。悲しめないどころかそいつが死んで土に還ったことすら知らないで俺たちは今生きてるんだよ。不純なんだよ。命は大事だ、みんな平等だ、非情だ、思いやる心がないのか、って言ってるお前が、命を大事に人を平等に扱ってないってことに気づけてないんだよ。
人を助けるっていうのはな、自分の命と生活諸々を捧げなきゃならないんだよ。誰かのために身売りするってことと同じなんだよ。自分の生活を売る。心を売る。それが今の中村にできるのか?」
「なによそれ……」と中村夢莉は口を手で塞いだ。「まるで、橋部くんの命が危ないって知ってるような言い草じゃない」
それに対して松村京谷は何も言えなかった。
「一人の人も思いやれないで、世界の人全員なんて思いやれるわけがないじゃない」
「ちげーよ、俺が言いたいのは、物理的に世界の全員のことなんて救えないんだから、一人救っちまったら救われてない奴への冒涜だろって。あいつは救ったのになんで自分のことは救ってくれないんだ、一人救っていい気になって、友達と遊んでる暇があったら俺たちのことも救ってくれよって言い出して切りがないんだよ。これだから馬鹿は……」
思わず、「あ」と声に出した。「馬鹿は余計だった」すぐにそう言えばよかった。しかし口元が上手く動かせない。しかし、言ったところで同じだっただろう。
「頭が良くてプライド持ってる人って、頭が悪いってレッテル張られてる人の気持ちなんてわからないはずよ」中村夢莉の目元には光るものがあった。
「頭がいい人は社会にすごく貢献していて、その貢献度は愚民に比べれば計り知れないかもしれない。でもこれだけは言える。あなたが一生かけても知り得ないことを、私は知っている自信がある」
気づいたときには、ちょうど史書室のドアが閉まるところだった。
松村京谷は溜息をついた。
割り切れ。嫌われることを恐れるな。神や仏のように完璧になどなれないのだ。確かに、この世の神羅万象、自分では知り得ないことも多々ある、計り知れないほどあると自負している。しかし、そこの穴を埋めようとして、尚且つ目指すべき場所にたどり着くには人生は短すぎる。
割り切れ、割り切れ、嫌われることも努力のひとつだ、と必死に唱えた。
俺が目指しているのは、労わり、思いやり、そんな陳腐なものではない。もっと壮大なものだ。
そう思ったところで松村京谷は気づく。「ああ、こういうところなんだろうな、中村の指摘するところは」かといってここで労わり思いやりが大事だと謳ってちゃ、目指すべき場所には絶対にたどり着けない。今の労わり以上の労わりを手にするには、今の労わりを否定しなくてはならなかった。
司書室から見える窓の向こうには、ビルが建っている。そのことが、自分の今立っているここが六階だということを教えてくれる。
松村京谷は窓を開けた。
ここから飛び降りるのが一番正しいと知っている。ここから飛び降りるのが一番楽だと知っている。この鬱陶しいくらいむさくるしい濁世を、汚れた顔で生まれた人間が生きるには酸素が足りなさすぎる。命を絶つことこそが一番正しい道理だと何度も言い聞かせてきた。
何かを変えようとするには、今、正しいと思っていることを覆すくらいの正しさが必要なはずだ。それを、今、掴みかけている。
そこに、ビルから飛び降りるという道理はまだなかった。