5.美咲の家へ
まだ肌寒い季節だが、動けば体が温まる。あと一ヶ月もすれば、すぐに半袖にしたくなるだろう。カバンに入った、きのう買ったボードゲームが重く感じてきた。もうひとふんばり、おれは心の中でとなえると、サドルから尻をあげて、足に力を入れた。
高校がはじまって二週間目、学校がおわってから、はじめて美咲の家へと遊びに向かっている。
いつも通る道では桜が散り、緑色の葉が芽吹いている。桜のじゅうたんはすでにだれかに片付けられていて、アスファルトの欠けた、古ぼけた粗い道路が残っている。
ひたいに汗がにじみ出る。途中で自転車をとめて、かばんからタオルを取り出すとぬぐった。
「はー」
橋をわたり、並木道へとつづく。高校の方角とは少しズレて、目的地は街外れだ。下り坂を重力にまかせるとさっそうに駆けぬけ、全身で風を浴びる。それがすごく気持ちよかったけれど、耳だけはちょっと熱を持つように感じた。
古臭い一軒家ばかりが並ぶ区域をぬけて、だんだんと建築されて間もないような大きい共同住宅や、まだ壁がきれいな一戸建てばかりの区域、いわゆるニュータウンへと入った。町並みの色づかいはだいたい四種類――――白色、赤土色、クリーム色、こげ茶色。不自然なほど均一に整備されたそこは、一般庶民が入るとちょっとだけわくわくする。
どんな人が住んでいるんだろうか、どんな子供が遊んでいるんだろうか、どんな人生を歩んできたんだろうか。自分の知らない世界はどこにだってあるけれど、ここは親しみと孤独さのバランスが、ちょうどいい。
普段とおっている道路は違って、どこもかしこも整備されている。歩道は赤レンガ調に見えてきれいだ。
おれはまた自転車をとめて、かばんから水筒を取り出すとひとくちだけ口に含んだ。
スピードをゆるめ、左脇に映ったクリーム色の高級マンションを見上げた。二十とちょっとの階層あるそれは、ワンフロアごとに一室となっていて、全体で160畳ほどあると美咲から聞いた覚えがある。10畳もあれば一人暮らしにはすこし広めで、友人も何人か呼べるほどなのに、その広さはもはやギャグだ。
とにもかくにも、おれの嫁は金持ちの娘、ということになる。
自転車をおりて、置き場へと入る。カゴに入ったかばんを背負って、いざ出陣だ。
ガラス張りの玄関を自動ドアが迎えてくれると、エントランスは、やや暗めの温かみのある明かりで照らされている。たしか、電球色とか呼んだ記憶がある。床は石畳のようになっていて、なぜだか異様に広い。値のはりそうな椅子が十個以上置かれていて、例えるならホテルのロビーのようだ。客間のようにきちんと背の低い机も並べられていて、観葉植物まで取りそろえられている。
テーマのこもったインテリアに、おれは心のなかで苦笑いして、キーパッドを操作し、美咲を呼び出す。十二階、値段の上がりそうな階だ。
オートロックについているライトが、赤色から緑色へと変わり、インターホンからノイズが走ると、すこしだけ間をおいてから声が聞こえてきた。
「はい」
美咲のものではない。どうやら花恵さんの声のようだ。
「鳴宮さんの友だちです」
「ああ、どうぞー」
なんだろう、やけに緊張するな。この世界だと花恵さんとは初対面だし、堅苦しいくらいにはていねいにあいさつをしようか。いや、花恵さんはわりとそういう嫌いだから、やめたほうがいいかな。
おれが悩んでいる間に、閉ざされていた、エレベーターへと通じる自動ドアが開く。
エレベーターに乗りながら、どうあいさつしようか考えていると、あっという間に到着してしまった。
ごとんっと、音をたてて扉がゆっくりと開き、広間へと出る。たった一つだけ設置されているはずの彼女の家の扉は開いていて、隙間から花恵さんが顔をのぞかせていた。
「どうもー」
「ああ、はい。はじめまして」
美咲に似て――いや逆か。やはり久々に見たが美人だ。薄手の桃色のセーターと、グレーのスカートを履いている。髪は美咲と同じく天然パーマだが、美咲よりかはくせっ毛ではない。
「……お母さん。じゃま」
美咲は頬をほんのり明るく染め、口元をへの字にしていた。
恥ずかしがっている美咲は、結構めずらしい。
「遊びにきたよ」
美咲は花恵さんをなかへ引っ張ると、扉を大きく開けた。
「うん」
しかし、花恵さんも負けじと美咲の背後から彼女を軽く抱きしめながら出てくると、口を開いた。
「お茶菓子、すぐに持っていきまーすぅ」
楽しそうな人だ。
よくもまあ、こんな母親から、無愛想が辞書から出てきたような娘が生まれるものだ。
花恵さんにちょいちょいと手招きされながら、おれは家へと入った。靴を脱ぎ、揃えて出口側へと向け、玄関の鍵をかける。
「うふふ。美咲が女の子のお友だちより先に、男の子のお友だちを連れてくるなんてねえ」
「どうも。お世話になってます」
「……そんなことない。私があなたに助けられてるわ」
それにしても、あいかわらず広い家だ。リビングだけで50畳ぐらいあるんじゃないか。
「美咲から一条くんのことは聞いてまーす。お昼いっしょに食べてくれてるんでしょ?」
「そうですね。二人だけってわけではなくて、友人と合わせて五人グループで」
「娘がね、学校に行くのが楽しいって言ってくれてね。すっごい親としては嬉しいのよ、ありがとね」
おれが笑っていると、美咲は花恵さんを押してキッチンへと向かわせた。
「はずかしいから、静かにしてて」
微笑ましいな。そう言った美咲の顔は、表面上はいつもどおり平然としている。内心は、言わずもがなだ。
それに、美咲さん、学校に行くのが楽しくなったって? それは、よかった。本当に、よかったよ。
「あ、一条くんぶどうジュースとカルピス、どっちがいい?」
「ぶどうジュースがいいです」
「オッケー!」
若いなあ。
「美咲のお母さん、楽しそうだな」
「はずかしい」
「本人よりはしゃいでるもんな」
美咲は、花恵さんに聞こえないように、おれへ耳打ちする。
「友だちを連れてくることなんて、ほぼないから。たぶん、お母さん嬉しいんだと思う」
「学校、楽しいか」
「うん。中学の時よりも、ずっと」
そっか。
おれは息をひっそり大きくはくと、胸の内でガッツポーズをする。達成感が、ほとばしる。
「美咲のお母さんはなんてお名前なんですか」
「花恵でーす。なになに、名前で呼んでくれるの?」
美咲のかーちゃんとかいちいち呼びづらいし、なにより慣れてるからな。
「まあ、美咲のお母さんって呼ぶと長いんで」
花恵さんは右手の親指と人差指をつなげて丸を作ると、おれに向けてきた。
この世界では初対面ながら、さっそく名前で呼ばせてもらうことにしよう。
「おじゃま虫かもしれないけど、私も混ぜて欲しいなーなんて」
ソファに座っていたおれと美咲につづいて、花恵さんはおれとは反対側に立った。
「おれはいいですよ」
美咲の頬の筋肉はまったく動いていなかったが、おれには嫌そうな表情に見えた。
「けど、美咲は嫌がってそうですね」
「あら。一条くん美咲の気持ち読み取れるんだ」
ボロを出したか? 二週間程度で表情が読み取れるのは、さすがに早かったか。
花恵さんはお茶菓子をちゃっかり三人分持ってくると、リビングの机へと置いた。おれと美咲に合わせて、彼女はソファへと座る。
「なんとなくですよ」
「うふふ、私とお父さんの他に、美咲の表情がわかる人がいるなんてねー」
「お母さん、どこかへ行ってほしい」
美咲は不満気だ。
「えー。だめ?」
「だめ」
「どうしても?」
「だめ」
花恵さんはしょんぼりした様子をわざとらしく見せると、すぐさま首を持ち上げて話を切り替えた。
「ところで、一条くんは美咲のこと名前で呼ぶんだから、あなたも名前で呼んだら?」
「美咲、おれの名前覚えてる?」
美咲はまばたきして、答えた。
「うん。一樹くん」
「あー、そう呼ぶんだ」
花恵さんは意地悪そうに言った。彼女の言いたい意味がわかり、おれも追い打ちする。
「くんをつけて呼ばれるの、慣れてないな」
花恵さんはおれの発言を大胆とでも思ったのかはやしたてているが、こっちとしてはわりと真面目だ。
一樹くんだけはどうもむず痒い、美咲からそう呼ばれたことはない。
「……じゃあ、一樹」
真顔な彼女は、すごく恥ずかしがっているように思えた。
「そういえば、一樹くんはきょうゲームしにきたんだっけ」
「花恵さんもナチュラルに名前で呼ぶんですね、いいんですけど。そうですよ」
「ねえねえ、女の子のゲーム趣味ってどう思う? ぶっちゃけ」
わりとこの時代はめずらしいもんか。いや、おれの時代でもゲーム趣味の女の子はそうはいなかった。
親としては、花嫁に出す娘が、男ウケがいいのか悪いのか気になるところなんだろう。
「いいと思いますよ。おれはどちらかといえば、なにも夢中になれるものがない子のほうが苦手ですね」
「おおー。なるほどね! 世の中の母親はわりとゲームとかやめさせるのかなーとか思うんだけどさ、どうもできなくってね」
いい母親だよ、花恵さんは。
「本人の好きなことを、なにかを犠牲にしない範囲ならやらせてあげたほうが素敵だと思いますけどね」
「あはは、高校一年生とは思えないなー」
その言葉に、少しだけヒヤリとした。
美咲の直感も鋭いが、それはこの母親ありきのもんだ。この人もかなりキレる。
「じゃ、ごゆっくり!」
指をすべてのばしつつ、水かき部分をすべて閉じてみぞおちの辺りでかざしている。シュバッ、と漫画なら擬音が描かれそうな素早さで、花恵さんが離れようとしたとき、おれは首だけ動かして、彼女の背中へ声をかけた。
「花恵さん。ボードゲームを持ってきたんで、美咲と二人で遊ぶのおわったら、いっしょにやりませんか。家事が片付いたらでいいので」
おれの言葉に、花恵さんは満開の笑みを浮かべて、承諾してくれた。
「いいなー。私も学生のときにこんな男の子、ほしかったなー」
そういって、花恵さんは洗濯機の方へと向かっていった。
美咲はテレビ台のもとでゲーム機をつけて、コントローラーを二つ持ってきている。
「一樹。お母さんとすぐ仲良くなった」
「気さくな人だったから」
それから、すこしだけ空白があった。
「お母さん、嬉しそうだった」
「そうだな。また今度、遊びにくるよ」
美咲は”うん”と言うと、座りなおす。
おれの視線からは、彼女の口元が微笑んでいるようにみえた。