47.無題
十二月七日。
どこかしら。
部屋にはいない。リビングにもトイレにも、バルコニーにも。
靴があるのが不思議。コンビニに行くときへ使っているサンダルも残ったまま、忽然と消えている。
スマホが彼の部屋に置いてあった。
これでは連絡が取れない。携帯しない携帯電話なんて、意味がないわ……。
「一樹」
家で呼んでみた。もちろん、返事はない。いないことはさっき確認したから分かってる。
けど、もしかしたらまだ見てない場所から返事が帰ってくるかもしれない、と淡い期待があった。
どこかしら。
なんだか、嫌な予感がする。
――――――。
――――。
――。
見当たらない。
思いつく場所は探してみた。ジョギングはしていたけれど、わりと疲れるものね。学生時代よりもずっと体力が落ちてる。少し心臓が痛い。
家へ帰る前に、コンビニで彼の好きだったモンブランを買ってみた。
なんだか、そうすると彼が早く帰ってくるような気がしたの。
十二月八日。
彼がいなくなってから一日が経ってしまった。
いつもは七時前ぐらいに起きているけれど、今日は五時半に目が覚めてしまった。
隣に彼がいないまま寝るのは、いつぶりかしら。結婚してからは、ずっと一緒に寝ていたような気がする。
朝食は、モンブラン。
甘いものが好きだからって、朝から食べたりしないわ。
昨日、彼が帰ってきたように買った、残り……。あまり日持ちしないから、食べることにした。
私は、自慢じゃないけれど記憶力がいい。
完全記憶能力という、見たものや聞いたものを忘れない体質だ。そんな私が、彼が消える前のことを覚えていない。勘違いで、実は用事があって出かけていました、というのはあり得ないことになる。お酒も飲んでいないし、記憶違いはないでしょう。
……なにより、彼と一緒に眠ったはずだ。
彼の腕を抱き枕に、眠ったはずだ。
なにが、起きたんだろう。
分からない。
なにも、分からない。
十二月九日。
昨日の昼に警察へ捜索願を、夜にLINEやTwitterを使って情報を求めた。
そして朝、確認をしてみたけれど、なにも有力なものはなかった。
私の自慢だけれど、彼との夫婦仲はよかった。
喧嘩も、滅多にしない……というより、したことない。いえ、喧嘩になっていても、私が気づいていないだけね、きっと。
彼は不満があれば話してくれる。
いきなり、いなくなったりなんかしない。
それは私が一番分かっている。
でも、彼は自分自身に対する悩みは、あまり打ち明けない人だ。
自分で考えて、自分で結論を出したがる。
悪いことではないのだけれど、どこか抱え込みがち……。
もっと人に頼ればいいのにな、って私は思う。
今日は、どこへ探しに行こうかしら。
十二月十日。
分かっていたことだけれど、私にとって彼はすごく大きな存在だったようだ。
最低限の花嫁修業はお母さんから受けていて自炊や洗濯ぐらいこなせる。でも、言いようのない不安があるの。
彼がいなくなった不安だけじゃなくて、私が生きる糧としていたものが消えたんだって、分かった。
……彼が、よく言っていたっけ。
美咲は強いね、って。 美咲は偉いね、って。美咲は格好いいね、って。
そんなことないわ。
そんなことない……。
私はよく、勘違いされる。
他人に依存しない人だって、孤高の生き物だって、思われる。
子供の時は、ずっと一人だった。
一人には、慣れていた。
本を読んだり、考え事をしたり、勉強したり、学校生活のなかだけでも、一人の時間はいくらでも潰せる。
家へ帰れば、ゲームがあった。ネットのなかでもコミュニケーションは不得意だった。でも言葉を交えなくても、対戦ゲームは一つの目標を共有できたから楽しかった。
あれは、私なりのコミュニケーションで、楽しみだった。
そんなふうに過ごしていて、彼に出会った。
はじめは一年生だったけど、ちゃんと話したのは三年生になってからだ。
楽しかった。
一緒にゲームをはじめた。従順で、真面目で、思慮深くて、情熱家だった。
それまで、私のなかでコミュニケーションの道具だったり、楽しむためだったゲームが変わった。
日本大会で優勝したときの、彼の笑顔を見た。
達成感に満ち溢れ、今までの努力が報われたんだって、幸せだって、言いたげなあの表情は、私の脳内の写真にずっと残っている。
その先が、見たくなった。
もし彼が、世界で一番を取ったら、どんな表情をしてくれるんだろう、って、気になった。
楽しむためのゲームが、勝つためになった。
すべては、彼のために。
それから、私は見違えるように上手くなった、と思う。
プロゲーマーになって、色んな人から褒められた。天才だって、言われた。
私は、そんなんじゃない。
そんな言葉は、どうでもよかった。
結果は、結びつかなかった。
あのときの表情は、思い出したくない。
完全記憶能力は、忘れたいことを忘れられない。
ずっと、残ったままだ。
悔恨の思いは、尽き果てない。
もう少し、がんばれたらって。
もっと、上手かったらって。
彼に、あんな表情はさせなかったはずなのに。
悔しかった。
それから、結婚をした。
もう一人になるのは、落ち着かなかった。
あんなに一人でいるのに慣れていたのに、気づけば……。
ねえ、一樹。
かえってきてほしい。
いますぐにでも……。
十二月十一日。
高校生三年生のクラスメイト、鈴森琴音から連絡が来た。
最初はただの近況報告だったのに、なぜか彼女は家までやってくることになった。仕事は休みらしいけど、そこまでしてくれるなんて、やさしい。
住所を伝えると、二時間ぐらいで彼女はやってきた。ジーパンに、茶色のダッフルコートがよく似合っている。
「……おまえ、酷い顔だぞ」
「そうかしら」
鏡は、朝起きて顔を洗うときに見る。
そんなに、変わった顔だったかしら。
「眼、腫れてるぞ」
「ちょっとだけ泣いたの」
「ちょっとなもんか……」
靴を片方づつ乱暴に脱いで、最後は丁寧に整頓する。なんだか、彼女らしい。客人用のスリッパを履いてもらい、リビングへ招く。
「鳴宮……おまえ、ちゃんと寝てるのか」
「うん」
「――そうか。それならいいんだけど……」
なんで来たの? って質問は失礼よね。
どうやって、伝えよう。
「琴音は、なんで来てくれたの」
「そりゃお前……! 電話越しでも分かったぐらいだぞ……!」
「なにが」
「もういい……」
変な喋り方を、していたのかな。
自分じゃ、よく分からない。
「今さら聞くのも野暮だけど、見当は?」
「ついてない」
「だよなぁ……。一条が失踪するようなやつとも思えんしなぁ……」
失踪じゃないとしたら。
彼女は自由気ままにソファへ腰掛ける。
両腕も広げて、背もたれに力を預ける。肩甲骨辺りの関節が鈍い音を鳴らしていた。
「誘拐とか」
「んー……まあ、そっちの方が可能性は高い、か? 一応、有名人っちゃ有名人だもんな、あいつ」
「身代金を取れるほど偉い人じゃない」
「はは、そうだな」
彼がいなくなってから、はじめて冗談を口にした。
「いきなり消えるってなあ……。原因がまったく分からんのよな」
「防犯カメラには映ってないって」
「本格的に神隠しじゃん……。なんか怖くなってきた」
琴音は幽霊とか信じるタイプだったのね。意外だわ。
「いや、信じないけど。ふつうに怖いじゃん」
「ねえ琴音」
ん、と彼女は言った。
学生の頃からずっと変わらないショートボブの髪型が、なんだか安心する。髪色は、黒色だけど。
「明日は仕事」
「ん、まあそうだけど……。寂しいならいようか?」
「いいの」
「別にいいよ。なんか、放っておいたらヤバそうだし」
社会人の経験がないから、彼女の対応がどれぐらいめずらしいのか推し量れない。
でも、仕事を休むのってきっと大変なんだと思う。Twitterで仕事が忙しそうな人の話を見た程度の知識だけれど。
「ゲームでもやるか? 全然やらんから下手だけど」
「うん」
十二月二十四日。
クリスマスイブは、琴音や入野君たちがやってきてくれることになった。一樹だけがいない、いつものグループ。大学生になってからも、所々で集まって遊んでいた。
一樹がリビングに置いた加湿器を、ネットで使い方を調べた。
ヒノキの匂いがするオイルを入れて始動させると、彼のことを思い出す。
お風呂上がりに一樹がデザートを用意してこの加湿器を使っていたのが、鮮明に蘇る。
完全記憶能力はいつだって記憶を取り出せるだけで、きっかけがなければその切れ端をつかむことができないから。
スマホを取り出して、LINEの履歴を見てみる。料理は苦手というほどではないけど、一樹と違っておもてなしはできない。
だから、琴音たちがケーキやチキンを買ってきてくれることになった。
掃除だけ、頑張ろう。
一樹は大変ね。いつも、こんな家事をしていたのね。
私が、あんまり彼の負担を考えていなかったから、出ていったのかしら。
心がキュンってなってしまう。
鼻の奥がつままれるみたい。
目頭が涙で溢れそうになる。
また眼を腫らしてしまったら、琴音に怒られちゃうわ。
どうにか、我慢しなきゃ。
我慢、がまん。
お掃除、しなくちゃ……。
廊下から、洗面所とおトイレ、最後にリビング。
そこまでやって、終えることにした。
彼の部屋は、掃除をしていない。寝るときにベッドを使っているけれど、そろそろ布団も干さなくちゃ……。彼の匂いが消えてしまうのが、すごく嫌だけど。
私は、一樹の部屋にある彼の趣味であった紅茶を使うことにした。
壁に設置された正方形の戸棚。そこへ多数つけられた小さな収納。なかには種類ごとの茶葉が入っている。
チキンとケーキに合うのは、どの茶葉かしら。
確か、記憶ではこれと、これね。
入れ方は聞いていないけれど、彼の動きを見たことがあるから、それを真似すればいい。
頭の中に、映像は入っている。
美味しく入れられると、いいな。
茶葉をいくつか取って、部屋を出る前に最後、室内を目線で一周する。
もちろん、誰もいない。
あら、あんなところに。
ベッドのそばにある本棚に、卒業アルバムがあるわ。これも持っていきましょう。
一人で見たら寂しいかもしれないけれど、みんなと見ればきっと楽しいはず。
みんな、早く来ないかしら……ね。
一月一日。
一人で年越しをしたのは、はじめての経験。
子供の頃は家族で過ごしていたし、そうでないときもパソコンで一樹たちチームメンバーと一緒にゲームをしながら越していた。
誰かが家に来てくれたときはごまかせるのに、一人はどうしても無理だ。
配信をしよう。
生放送は、誰かがコメントをしてくれるから気持ちがまぎれる。
……FPS、久しぶりにやってみようかな。
Not Alone:best――――彼が戻ってきたら、ちょっとだけ真面目にやってみたい。
勝つことと、楽しむことの両立は難しいけれど、今ならできる気がする。
一月二十日。
顔見知り程度の男の人からよくLINEやTwitterのDMが来るようになった。
私はそんなに尻軽じゃない、と言いたいところだけど。彼が本当にいなくなったとしたら、再婚は考えたほうがいいのかな。それが普通よね、世間的には。
全然したくないけど。
妊娠していなくてよかったような気もする。父親のいない子供は、なんとなく可哀想だから。
でも欲しかったような気もする。このまま彼がいなくなったら、私にとっての生きがいが減る……いや、なくなってしまう。
ストリーマーとして活動していって……たぶん、食うに困らない程度の収入は得られると思う。
今は、そういう時代だ。
けれど、それだけでいいのかしら。
私はゲームが好きだけど、ゲームは生きる意味にまで到達していない。
人生を楽しむための手段でしかない。
このままだと、私は大変なことになる気がする。
死んでいるのと、おなじになる。
そんな気がする。
こわい。
二月四日。
Twitterで、他のFPSゲーマーで行方不明者が出ていた。
その人は見つかっていたけど。
なにか気になって、そのゲーマーと周辺のプレイヤーのTwitterをフォローしてみた。
どうやら、いなくなってるのは二回目にもなるらしい。
どういうことだろう。
あやしい。
私の勘は、よく当たる。
その人は、私たちが引退した次の年に日本一を取った人だった。
それから彼のチームは最高成績でアジア二位にまで登りつめ、彼もまた去年に引退したみたい。
Not Alone:bestで活躍していたから、2012年から四年間日本一位を取り続けたのね。
その彼が、一樹と同時期……と言ってもいいはずね、彼より遅れてから行方不明扱いされた。もう見つかってはいるわけだけど、偶然にしていいとは思えない。
なんだろう、この感じは。
……一樹は、こういうとき私に下手に動いてほしくないだろう。
おとなしくしてほしいと、思うだろう。
こういうとき、女って性別は不便ね。
どうせなら筋肉もりもりの女の子に生まれたかったかもしれない。
そうなると、一樹と結婚できていなかったか。彼、細身の子が好きみたいだから。
三月三日。
Twitterで、例のFPSゲーマーのツイートがなくなっている。
考えすぎだろうか。
仮に彼が犯人だとしても、私にはどうしようもないけれど。
なにも手立てはない。
三月十四日。
ツイートをしているの目撃。
TwitterのDMを送ってみることにした。
『aquaを、一条一樹がどこにいるのかご存知ありませんか』
どんな反応が来るだろう。
……琴音に相談しておこう、万が一があったら怖い。




