4.二度目の初恋
「じゃあ、今日は解散。部活の勧誘が外で待ってるから、興味あるやつはちゃんと勧誘の紙、もらっとけよー」
やなぎ先生はそう言うと、誰よりも早く教室を出ていく。自己紹介からつづいていた野暮ったい空気は、先生らしからぬ動作によって解消され、みんなは後を追うように出ていった。初日だからか、友達という関係がまだできていない生徒たちは、連れ添って帰宅する者も少なく、まばらだった。
おれはその流れにのらず、いまだにゆっくりと身じたくをしている美咲のもとへと行く。
「美咲、いっしょに帰ろう」
「うん」
口元をきゅっと結んで、おれの方を見ることなく彼女は帰り支度をつづけていると、ちらりと、ひと目だけこちらを見た。おれは彼女を急かすこともなく、ただ待つ。やがて、彼女はスクールバッグを背負うと、そばにいたおれの後ろについてきた。まるで子犬のような振る舞いが、おれの胸を踊らせる。
おれは、中断していた話を戻した。
「部活、なにに入ろうとしているんだっけ」
「……e-sports部」
淡いクリーム色の廊下を二人で歩いている。廊下は帰宅する生徒がざわめいていて、美咲のか細い声はとても聞き取りづらかった。というより、半分ほど聞こえていなかったかもしれない。
けれど、情報の断片が脳裏にこびりつく。それを解読し、一つの言葉に完成させる。穴の空いたパズルに、ひとつひとつピースを当てはめていくように。
「e-sports部?」
漫画や小説のように、大声で張り上げることはなかった。落ち着いたようにみせても、心は困惑でいっぱいだった。
声色は変わっていただろうか。ひっしにごまかせただろうか。いや、もしかしたら、そんな必要はないのかもしれない。
2006年のこの時代に、e-sportsなんて言葉が出ることはなかった。いや、おれのいた、これから十年以上も未来でさえも、その言葉は浸透していない。
ここは、おれの知る世界じゃないと、自己紹介での予想がより深まる。
「うん」
おれの返答から少し間をおいて、彼女は答えた。
それから、おれは昇降口まで、くちを開かなかった。
二人で、下駄箱から上靴を、スニーカーとローファーへそれぞれ持ち出して、地面へとおく。おれは乱雑に、美咲はていねいに。
なれた動きで履きかえるおれとは一転して、彼女はまるではじめてのような手つきで靴を履きなおす。つま先からそそくさと足を入れ、かかとを指で添わせて調整する。
「へえ。ゲームが趣味だから?」
自己紹介で得た情報を頼りに、話を広げようと思う。
このe-sports部があるということに、どう反応すればいいのか困った。めずらしい部活に入るね。とか、はじめて聞く単語だ。なんて、返す言葉に種類はあるけれど、この世界の”e-sports”がどれだけ浸透したものなのかがわからなければ、うかつなことは言えない。
おれが転生者であるということは、可能な限りは気づかれてはいけないと、なんとなく頭によぎる。
「ううん。私、お友達を作るのが苦手だから。いつかだれかといっしょに、ゲームをしてみたいな、と思っていたの」
彼女はローファーを履きおえると、そう言った。愛らしい少女の言葉が、おれを悶々とさせる。
そんなにもさびしいことを、よくもまあ軽々と言えるものだ。
「――だから、入ってみようかなって」
「そっか」
彼女はいいとこの出だ。いわゆるお嬢様。だから、ゲームをするという趣味は、恥だとは思っていなくとも、それが周囲への評価につながってしまうと分かっている。だから、おれの知っている美咲は、ゲームが趣味とは言わなかった。
けれど、この美咲はどうだろう。
おれの知っている彼女よりも、少しだけ積極的で、コミュニケーションが取れる、気がする。
むかしの彼女は、悩みをそう簡単に人へ打ち明けるような人ではなかった。心を閉ざし、無口で、自分の考えを主張しないような子だったと思う。
部活に入るなんてもってのほかで、この時代の美咲と考えれば考えるほどに、想像ができない。
ここはおれの知る世界じゃない。――――おれの知る彼女は、一条 一樹と仲良くなる前は、なにが夢だったんだろうか。おれの知っている夢は、”世界で優勝”。おれとチームを組む前は”お嫁さん”だった。向こうのあいつは、なんで世界一なんてめざそうと思ったんだろうか。
はじめは、おれの日本一の夢からはじまって、WCS予選で優勝して、晴れて日本一に。大会後の帰り道で、なんで、あのとき――――美咲は世界を取ってみたいなんて、言い出したんだろう。
いまとなっては、もう知るよしもないが。
「一条くん」
おれはスニーカーを履きかえた直後から、動いていなかった。美咲は昇降口で足を止めて待っている。
右手で顔をぐにゅぐにゅとぬぐうと、口角を少しだけあげて、彼女へ近づく。
「美咲。こんどいっしょにゲームをしよう」
「……ほんと」
「ほんとう。なにする、なにしたい」
彼女のまゆ毛はひそみながらも、ごく微量な笑みが口元をゆるめ、頬にほんのりと朱が染まる。
かわいいなあ、こっちの美咲も。
「美咲の家、こんど遊びに行ってもいい?」
「――ええ、もちろん」
この頃の美咲が、表情を変えるなんて、おれの世界じゃまだなかったな。
どれだけ嬉しくても、あいつは顔の筋肉ひとつも動かさなかった。
この美咲は、おれの知る高校三年生ぐらいの美咲だ。
「いつがいい?」
「――いつでも」
なんだかなあ。
あれだけいっしょにいたのに、まるで初恋のように胸が高鳴る。
幸せだ。
すごく。
「じゃあ、またな」
「うん。ばいばい」
途中までおれたちは自転車をこいで、分かれ道で言葉を交わした。
ペダルをこぐ。恥ずかしいような、嬉しいような、言葉にしづらい感情が、おれを立ちこぎというアクションを起こさせる。まだしんしんとした空気が、肌に刺さる。白い吐息が、視界に映る。
風を切り、朝の通学とおなじように、耳の聴覚は奪われる。都会からはすこし外れた高校から、おれの住む山の方へ、ぐんぐんと進めていく。道路からは車の量が次第に減り、信号機の数も減る。住宅街に入り、次第に坂道が増えて、のぼっていく。
いまだ立ち漕ぎで、快調だったスピードもゆるまり、いっしょに、おれの心の調子も落ちる。
なんで、おれは幸せになろうとしているんだろう。
それよりも、おれにはやるべきことがないか。
仮に見つからないとしても、おれには……おれには。
まず、元の世界に戻ろうと努力をすることが先じゃないか?
美咲はどうする? 世界の時が止まっていなかったとしたら、前の世界の美咲をおいて、この世界の美咲と幸せにいるとき、あいつがすごくかわいそうだ。
これでいいのか。
なんで、過去に戻るのが、ひとときの夢で終わらないんだ。
がんじがらめな思考が、幸せだったさっきまでの時間を、一瞬にして苦しいものへと変貌させる。
向こうの美咲が悲しんでいたり、不安だったりかもしれないのに、おれだけが幸せでいいのか。
自己紹介のとき、おれはなんて考えてた。前と同じような人生を歩んでいいのかだって、馬鹿かおれは。
この世界で、おれが幸せになる権利なんてあると思えない。
立ちこぎだったおれは、坂道とともに、サドルへ座り込む。
どうすればいい。
なにをすれば、おれは元の世界に戻れるんだ……。
鍵となるものがあるとすれば、Not Aloneの世界大会で、優勝。それぐらいしか、思いつかない。もし、おれが物語を書くなら、それを帰る条件とするだろう。小説家としての仮説だ。
*
ぼさっ、と音を立てて、おれはベッドに寝転んだ。ひんやりとした面積を探すように体を動かす。体の熱を奪ってもらうかのように。
Not Aloneが好きか嫌いかで言えば、好きだ。何年もやりつづけてきたのは愛したゲームだったからこそ。この感情は、美咲にも負けない自信がある。
いくら好きとはいえ、もう疲れた。はじめた年から数えれば十四年。実際のプレイ歴で言えば、だいたい十年ってところ。
そりゃあさ、NAにも飽きるだろう。十年の月日はでかい。どれだけ好きなもんでも、同じ趣味を八時間以上、毎日費やして十年。これに飽きないやつがいるか?
いるとしたら、それはいわゆる天才。口を悪くすれば、頭のネジが外れたやつ。脳の構造が人と違うから、物事に飽きない。
いくら美咲が望もうと、世界で勝つのは無理。e-sports文化の発展していない日本で世界一を取るには、長い月日と、才能あるプレイヤーが必要になる。
その才能は、一日にできる努力をずっと、ずーっとつづけることだ。
おれは天才じゃない。努力をつづけるのは、とんでもなくつらい。努力を努力と思わない天才には、どうしても敵わない。
日本チームが、おれが、世界で優勝なんて、できるわけがない。
できるわけがない――。仮に、NAの世界大会優勝が、元の世界に戻れる鍵だとしても、美咲と会うチケットだとしても、おれは途中であきらめてしまう。
努力は苦しいから、逃げ出したくなる。もし、元の世界に戻れる鍵じゃなかったとしたら? いままで費やしてきた時間は? 優勝すれば、そりゃあ嬉しいだろうし、やってやったぜって、ほこらしい気分にもなる。けれど、もし優勝できても帰れなければ、おれはいったいなんのために頑張ってきたことになる。
優勝できずに負けたとしても、なんのために頑張ってきたことになるんだ。
自分の感情を、精神を、機械化して、一日に十時間の努力が、最低でも三年は必要になる。世界の頂点を取るのは、自分がその苦痛に耐えきれるかどうかだ。
好きなものでも、いつかは嫌いになる。
好きなものは、好きなときに好きなだけやれるから、好きなんだ。
仕事と化した趣味は、仕事でしかないのさ。
愛した人と、おれの過去の夢であろうと、おれの弱さが、一歩を踏み出させない。
いい男になったと、思っていたんだけど。
また、マイナスな気持ちになっている。いつもどおり、寝て起きるまでは、直らなさそうだ……。