36.転
夢を見る。
悪夢と瑞夢の両方。
負ける夢と、勝つ夢だ。
それを繰り返した果て、形のないぼんやりとした黒い影と会話をする。
真っ白な世界だ。
「負けるのがこわいの」
いつもの、分かりづらい疑問系。
「怖いよ。自分の費やした時間がすべて無に消える気がするから」
「もし、あなたが不老不死なら、その感情はあるのかしら」
……さあ、どうだろうね。
「努力をしてきたから、こわいのね」
「ああ。なにもしてこなかったやつは、なにも失わない」
だから、おれはゲームを二度と本気でやらないと決めたんだった。
ゲームをしたことを、後悔はしてない。
けど、あんな感情が芽生えるぐらいなら、やらなければよかったと思う。
負けるのは嫌だ。
負けるのだけは……。
苦しい……。
「なぜ苦しいの」
分からない。
世界で負けてから、一年ほど考えていた。
なぜ、負けるのが苦しいんだ?
その一回の負けがなににつながる。
悔しいという感情はあってもいい。
けれど、なぜ苦しみや怖さが湧くんだろうか。
自分が許さないから?
いや、それはその二つの感情とは別の、気持ち悪さに近い。難問が解けないような、スッキリとしない感じ。答えのない問いを与えられたかのような。
じゃあ、その二つの感情はなにが理由なんだ。
人生に、時間の限りがあるからだろうか……。
有限の時間を、失敗という二文字で終わらせてしまうからか。
成功が出るまで、挑戦し続けるのは難しいからか。
人によって立ちはだかる壁は異なる。
年齢や、お金。性別や、知能。集中力、容姿、視力、聴力……。
多種多様な、千差万別な、壁が立ちはだかる。
そして、全員に共通する人生という区切り。
貴重な時間を、失敗で終わらせたくないから苦しいんだろうか、怖いんだろうか。
わからない。
「負けるとなにが嫌なの」
「失うから。かけてきた時間が、思いが、みんなから背負った期待が……。そして、おれたちの夢が……」
きえる。どこかへ、名前のついていないどこかへ……。
やがては風化していく。
それが、たまらなく嫌なんだ。
嫌だった……。
「――あなたは優しいから、人の思いに応えたくなってしまうのね」
幻影が、おれに語りかける。
なにもない、だだっ広い空間でも声は反響しなかった。
いつもの、家で話すような、そんな感じだ。
「負けるのが怖いのに、このまま戦ってたらあなたの心が、きっと壊れてしまうわ」
でも戦わなきゃ。
勝たなきゃ。
帰らなきゃ。
美咲のもとへ。
「ねえ、一樹。なんで、私が世界で優勝したかったか、わかる」
わかんない。元の世界に戻ったら、聞きたかった。
「はじめはあなたの夢からはじまったわ」
美咲の夢は、お嫁さんだったのにね。気づけば世界大会での優勝になってた。
理由はなにか、聞いてみたい。
「だって、あなたの夢がかなったとき――――日本一で一番になれた、あの日、あの瞬間。あなたがとてもうれしそうな顔をしたから」
首を傾けながら、それは言った。
「それがきっかけよ。大好きな人がよろこんでたら、とってもうれしいの。あなたと仲良くなれてから、私はずっと幸せ」
涙があふれる。
短く切るように息を吸い、震えるように吐き出す。
腹の奥の筋肉に負荷がかかる。
「あなたも、幸せ?」
「もちろん、美咲といっしょにいることが、一番だよ」
黒い、ぼんやりとしたススの影がほほえんだように見える。
「うれしい」
最愛の人は、ほほえみから笑みへと変わっていく。
もうちょっとだけ、がんばれるかな。心が先に、折れちゃいそうだ。
まだ、道のりは長いよ。
負けたくない……こわい……。
「ふふ、怖がりさんね。あなたが怖いと感じているものは、私と周囲の人が失望すると思っていたからでしょ」
そうなのかな。
……そうかも。
「ゲームで負けたのは悔しかった。でもそれだけよ、ずっと言ってるのに」
「ごめんね」
「時間も思いも夢も消えない。だから、あなたは今、その努力で得た強さを証明している。思いだって、私がいれば遺恨からノスタルジックな思い出へ昇華する。夢だってそう」
うん。
「私よりも負けず嫌いなんだから……困った人」
「すみません」
「……そろそろ、時間ね」
待ってよ、美咲。
もうちょっと、話をしていたい。
「いなくなるわけじゃないわ。いつだって、私はあなたの心のなかで、あなたを支えている」
ぶいっ。と、彼女は右手をピースマークにして突きつけてくる。
なにも感情のない表情が、とても愛らしかった。
「またね……」
目が覚めると、涙が頬を伝ってしめっていた。
鼻水がつまって、すすると頭に響いた。
……早く帰りたいなあ、家に。
でも、やらなきゃいけない。
帰らなきゃ。
たまには休憩をはさむか、って思うよ。漫画とか久しぶりに読みたいな。アニメとか、小説とか、ドラマとか音楽とか……。
美咲に申し訳がなくて、ほとんど手につかないけれど。
テスト前に遊ぼうと思っても、勉強が気がかりで結局は楽しめない感覚とおんなじさ。
反復作業の繰り返し、ゲームの練習をずっとしつづけてきた。
美咲。
あと何年、頑張ればいい。
負けたくないよ。
*
コンピュータ室でおれたち三人は、二年生の使う列で横並びに座っていた。
ホワイトボード側の、真ん中の列だ。
「美咲。おれは世界大会で優勝がしたい。一緒に出ないか」
「……あまり興味はない」
興味がない、この理由は、夢で教えてくれた。あなた自身が。
おれが高校生大会で三回も優勝したのに、全然うれしそうな顔しなかったもんな。
そりゃさ、理由がないよね。好きな人をよろこばせたいっていうさ。
「そっか。残念だ」
「……なぜ」
区切るような言い方で、彼女は椅子から立っておれを見る。
「なぜ、世界で優勝したいの」
気まずそうな顔で琴音がこちらを見ている。嘘をうまくつけなさそうだな、って思ってる顔だ。
大丈夫、琴音。心配はいらない。
美咲が、こちらへ近づいてくる。椅子に座っているおれと、立っている彼女。
「なぜ、勝ちたかったの」
「美咲がうれしそうな顔をしてくれたから、かな」
おれは琴音と美咲を連れて部屋を出ると、屋上へと向かう。
琴音の鍵さえあれば、内緒話にはうってつけの場所だ。
橙色のショートボブの女の子はため息を吐いて、スカートのポケットに手を突っ込む。
鍵を取り出して、穴にさす。ノブを回して、青空の光を浴びる。
おれたちはフェンスに手をかけて、運動場を見る。
さあ、物語を加速させよう。
こうして、起承転結の転へと、歩を進めよう。
「美咲、おれは異世界からやってきた」
彼女はなにも言わない。
おれはすこし間を置く。彼女が言葉を噛み砕いただろう頃合いで、話をする。
「だから、おれは帰りたい。元の世界に。その条件は、世界大会での優勝だと思ってる」
「なぜ」
「前の世界でやり残したのが、それだったから」
納得してくれるのかどうかわからないが、すくなくとも信じてくれているのかな。
「鳴宮、よく疑問もなく話を飲み込めるね」
「一樹は、嘘が苦手だから。ついてたらわかる」
話が早くて助かりました。
「……一樹の好きな人って、どんな人だったかしら」
河川敷での強歩大会を思い出す。
「無表情で、なに考えてるのかわからなくて、マイペースで」
「変人ね」
「けど、優しくて、気が利いて、理知的で、努力家で、ごくまれに見せる笑顔がすごく可愛くて」
琴音は、優しげな目つきでほほえんでいる。穏やかな雰囲気を出している。
聞いていて、楽しそうだった。
「感情の表現が苦手で人と仲良くなるのに時間がかかるし、勘違いもされる。けれど、彼女の中身を知ると、すごく愛らしくて、ほっとけなくて」
「さあ、誰かしら」
答えは、分かってるのかな。
一体、いつから分かったのか、機会があれば……話したいね。
「美咲。おれは元の世界で、お前と付き合って、結婚したんだ。同棲して、一緒の家で暮らしていた」
「……そう」
この『そう』は、すごく読み取りづらかったけど、決してマイナスな気持ちじゃないのだけは分かった。
「すごく幸せだった」
「そう」
だから、あなたの協力が欲しい。
「おれの愛した美咲に、もう会えないかもしれない。それは嫌なんだ。」
「……うん」
「だから、手伝ってほしい」
美咲の口角が、ちいさく上がる。
「わかった、でも条件があるわ」
なんだろう。
「琴音も一緒に」
彼女はフェンスに手をかける。そして、握る。
琴音も、一緒にか。
それは、どうだろう。難しいな。
「なんでか、聞いてもいい?」
「私にできた、二番目のおともだちだから。ここで、琴音を置いて行きたくない」
それを聞いていた、琴音が驚く。
「お、おい、鳴宮。無茶を言うなよ。一条はもとの世界に帰らなくちゃいけないんだ。私なんかじゃ足手まといに……」
「嫌。強いとか、弱いとか、そういうのはあまり好きじゃない。私は好きな人と一緒に、私の好きなことをしたかったの。その人の好きなことでもいいわ」
この話を聞くのは、はじめてだ。
向こうの美咲からも、聞いたことがない。
「楽しい時間を、共有したいの。分かるかしら、一樹」
楽しい時間を、共有……。
「ひとりぼっちは、さみしいのよ」
……そうか。
おれは、まだ子供だったな。
「私は、痛いほどそれを知っているわ。だから、あなたに話しかけられたとき、とてもうれしかった」
「ああ、うん」
琴音だって。
そうだよな。
また決めつけていたじゃないか。琴音は一人でも大丈夫だって、強い人だって。
気づけば、琴音はずっとおれらと一緒にいたのに。
おれがちらりと視線を移す。
「か、勝手なこと言うなって鳴宮! 別に、私は……」
「琴音」
そう言って、美咲は琴音に抱きつき、背中へ手を回す。
「正しいだけが、すべてじゃないと思う。なんで、自分のしたいことを言わないの。あなたは、どうしたいの」
変動のない声の調子。
なのに、どうしてこんなにも思いが込められているんだろう。
「どうしたいか、なんて……」
「言えないの」
「……そんなのッ! 一緒に遊びたいに決まってんだろっ……」
……そうだよな。
さびしいよな、こんなに仲良くなれたのに。仲間はずれにされるなんて、嫌だよな。
夏の暑い空気が、おれたちに汗をわかせる。
美咲は彼女から離れると、目に涙が溜まった彼女を見つめる。
「ねえ、一樹。ダメかしら」
「……悪い、琴音。お前の気持ちを組んでなかった」
と、おれは彼女の短い髪をなでる。
「馬鹿っ! お前、私なんかチームに入れて世界で勝てるわけないだろっ!」
うるうるとした瞳が、おれをこれでもか、とにらみつける。
「なあ、美咲。開清きっての大天才の琴ちゃんが、世界に通用しないわけないよな」
彼女は頬を染めながら、目尻を少しだけ下げて静かにうなずく。
美咲が笑ったのなんて、一年ぶりだろうか。
新チームの結成は、おれの思い描いていたそれとは異なりそうだ。
「なにかを見失っていた気がする。高校生大会での優勝を、全然うれしく思ってなかった。当たり前だ、って。当然だ、って」
ずっと苦しかった胸のつっかえが、取れてきた気がする。
ありがとう、美咲。
「当たり前の勝利を、よろこばなかった。先のステップばかりを見て、現状をみんなで噛み締めてなかった」
あんなに、楽しいのに。みんなでなにかをやるのって。
ゲームの楽しさだけを伝えていた。この世界の美咲も、おれの世界の美咲も、最初は一緒にゲームをやるのが楽しかったから、はじめたのに。
日本大会で優勝したあの日から、勝ちにこだわってしまった。琴音にだって、一緒にゲームをすることの楽しさを伝えるつもりが、気づけば勝ちの楽しさを教えていた。
違うだろ、そんなのは。
一緒にゲームをするのって、すごく楽しいんだ。成長を共に感じ、悔しさを共に味わい、感動を共に噛み締める。
あの素晴らしさを、忘れていた気がする。
勝つことが楽しい、それしかないと思っていたのは大反省だ。




