18.恋話
梅雨まっさかりの夏。今日は雲が少なく、強い日差しが照りつけている。この時代は、この世界は、おれのいた世界よりもずっと涼しい。これから十年もすれば、異常気象と評される蒸し風呂のような夏が待ちかまえている。
「あつ」
「そうだね」
琴音とおれは、二人で電車のホームにいる。自転車を持っていない琴音を考慮して、新人戦の会場まで電車を使うことにしたんだ。
セミがうるさい。
ずーっと鳴いている。
土曜日なのに制服に使うワイシャツを着ている。それに違和感を覚える。
「琴音、なんか飲む」
「うん。あ、お金」
「あとでいいよ。甘いの、スポドリ、それともお茶」
彼女は胸元のボタンをひとつ外していて、そこをつまんでぱたぱたとしている。扇情的な動きに、視線がつい飛んでしまう。見ているのに気づかれたら、ちょっと嫌われるかな。
「お茶」
おれは腰を持ち上げて、立ち上がる。
片袖でひたいをぬぐいながら、自販機の前へ。省エネをうたったのか、電気はついておらず、色のぼけた缶やペットボトルの模造品が立ち並ぶ。
どんなお茶が好きか聞けばよかったな、二種類、買っちゃえばいいか。
二回連続で買って、二本同時に取り出し、ベンチへ戻る。
彼女はまだ、胸元の換気をつづけていた。そこを見ていたおれは、彼女がこちらを見ているのに気がついて、急いで目を合わす。
「えっち」
「すまん」
「ふふ、気にすんな」
そういう彼女は、頬をほんのりと染めてはにかんでいる。そんな彼女に愛おしく思えた。美咲と結婚していなかったら、琴音のことを好きになっていたかもしれない。
「さんきゅー。はいお金」
「どっちがいい」
「こっちかなー」
二つのうち、より苦い方を取った。
なんか、デートみたいだ。
琴音とふたりで出かけることなんて、あるもんだな。
「一条、なんかデートみたいだな」
「柄にもないこと言うなよ」
なんだか恥ずかしくて、顔をそむけながらペットボトルに口をつける。
「まあ、友だちの旦那に手を出すつもりはないさ」
「手を出すって、お前そういう冗談、口にするんだ」
「ふふ。男とふたりで遊ぶ、というよりは出かけるなんて、はじめてだったからさ、ちょっと舞い上がってんのかも」
ふうん。琴音も、わりと年相応なんだな。なんでも優秀にこなせちゃう天才だからって、なんか変な誤解をしていたかもしれない。
当たり前かもしれないけれど、まだ十六歳の女の子だもんな。
それから、互いが協定を結んだわけでもなく、沈黙する。なにか話題を考えることもなく、ただ待つ。
電車、まだかなあ。
一分ほどで、彼女はかん口令をやぶる。
「一条さ」
おれはボーッと線路をながめている。どこか夢心地だった意識が、もとに戻る。
「鳴宮のどこを好きになったんだ」
つぶやきに近いような言葉は、予想だにしないものだった。
変な誤解のつづきかもしれないけれど、琴音は恋バナなんてしないと思っていた。それは、この異世界の彼女だからだろうか、それともおれが勘違いしていただけだったのか。
「んー、どこだ」
美咲のどこが好きか。
たくさんありすぎてな。うまく、言葉にまとめられない。
どこが好きか。
「どこだろう……」
「おい。嫁だろ」
わからんな。好きに理由ってあんのか?
好きって、なんだろう。なんで結婚したんだっけ。美咲から結婚を申し込まれて、それを受けて――あまり深くは考えていなかった。
いっしょにいるのが普通だったから。一日に八時間ぐらいはいっしょにゲームかおしゃべりか、動画見るか、音楽聞くか、それをパソコンを介してやっていたわけで、高校三年生ぐらいからの仲なのに、親の次には過ごした時間が長い。
結婚なんて、当たり前にするもんだったような、いままでとなんら変化のない日常の、ひとつのイベントだった。
そりゃあ、結婚式は大きな出来事だったけれど、プロボーズをされて、受けること自体はそんなに衝撃的じゃなかったんだよな。
「全部、好きだ」
「なんかうざいな。私から質問しといてあれだけど」
帰りてえ。もとの世界に。
あいつ、ずっと待ってんだろうな。
ああ、マイナスな気分になりそうだ。もとの世界のことだけは、考えないようにしないと。
「琴音は、だれかを好きになったことあるか」
「いや、ない。お前のことはそんなに嫌いじゃないけど、恋愛感情とは違う気がする」
嫌いじゃないっていう表現が、かわいいな。
おれも琴音のことは好きだけど、恋愛感情はない、と思う。
「好きって、あんまり理由ないよ。好きだから好きなんだよ」
「その答えは納得いかない。なんかないの? 笑顔が好きとか」
笑顔、笑顔かあ。
「あいつ全然笑わねえしな……」
「むっ、たしかに。鳴宮の表情筋は死んでる」
「まあ、その分さ、あいつが笑ったときはひとしお嬉しいんだけど」
琴音はふふんっと口元をほころばせると、言った。
「笑ったら、めずらしいとかって感情じゃないんだな。嬉しいんだ」
ああ。そういやそうだな。めずらしいってのはないな。もちろん、頻度を考えればめずらしいんだけど、それよりも嬉しいが勝つと思う。
笑ってくれただけで嬉しいってのは、好きな証なんだろうな。
「おれの理解者だからかも」
なんとなく、ぼんやりとその言葉は口から飛び出た。自分で考えついたわけでも、意識していたことでもない。
ふっと、いまわいた気持ちだ。
「理解者か、なんか、いいな。そういうの」
その単語を、頭のなかで反芻する。なんとなしに気づいたことを、遅れて考察する。おれのよくある思考方法だ。自己分析を、理屈屋なのに感覚派、とするだけのことはあるさ。
「もし、美咲がゲームをしていなかったとして、おれがどれだけ嫁のことを放置してゲームをしていたとしても、あいつはそれを許してくれると思うんだよね。というよりかは、気にしない?」
「ほう」
「お互いに触れてほしくない距離感ってのがあってさ、おれたちはそれに干渉しあわない。付かず離れず、もちろん、愛してあっているけれど、だからって他人の趣味に口出ししたりとか、たぶんないんだよね」
そんな、気がする。
おれと美咲は、個人の人格を、尊重しあっているような気がする。
「おれは美咲のことを尊敬しているし、あいつもたぶんおれのことをどこか尊敬してる。だからいっしょにいたいと思うんじゃないか」
「じゃあさ、なんかギャップがいいとか、そういうのはあんまり関係ないの」
ギャップがいい……。なんかそういう短絡的な、好きの要素のひとつでしかないものは、本当の愛には程遠いんじゃないかな。
そっか、おれは愛しているのであって、単純な好きじゃないからか。
「琴音は、まだ人を好きになるかどうかの段階だから、愛している段階の話は、あんまりわからないかもね」
例えを出そう。そうすれば、わからないのを、わかっている気にさせてあげられるかもしれない。もしくは、わかってくれるかもしれない。
「例えばさ、美咲はおれだけに見せる一面があったりすんだよね」
「どんなの」
興味しんしんといった様子の彼女は、おれをじーっと見ている。
「甘えてくれるとかさ。あの子のゲームが終わって、おれが家事をしているときにいたずらしてきたり、抱きついてきたりとか。ソファで寝そべってたら、上に乗っかってきたり、耳かきしてあげるとか言い出したり」
「のろけかよ。よくつらつらと出てくるな」
出てくるよ。
ずっと帰りたいと思ってんだもん。
「”好き”は言い過ぎでも、相手のことがすごく気になってるぐらいになって、ようやくギャップに対して好感を持つんじゃないか? でなきゃ、そもそもギャップに気づかないと思う」
「なるほど」
他にも、いっぱいあるよな。
「あとさ、あいつ結構はしゃぐんだよ。真顔で、全然楽しそうにしないけどさ、遊園地とか行くと、足が早くなって連れ回されたりすんの。全部終わったあとの帰り道でさ、腕を組みながら、ぼそっと”たのしかった”なんて言ってくれるわけさ。でも、それも好きになったか、もしくは、気になったあとの話なわけで、なんで好きなのかって答えにはならないと思うんだ」
琴音はなんだか楽しげにしている。目を細めながら目尻をちょっとだけ下げて、口をにんまりとして、おれの話を聞いている。
「なんでもできる完璧超人なのに、わりと天然だったりするんだよ。カップ麺のふたを閉じるのにさ、お湯を入れるときにやけどして使ってた保冷剤を上に置いたりさ、買い物をお願いしたら自転車に乗っていったのに、なぜか歩いて帰ってきたりとかさ」
「そっかそっか」
彼女の言葉づかいは、いつもよりも、やわらかかった。
ああ、やばい。声がふるえている。
喉がうまく開かない、思うようなしゃべりができない。
「よくわかんない自作の鼻歌を歌ったりさ、意地をはって夕飯作るときに怪我したの隠したり、おれが悩んでたらすぐに気づいてくれたり――――」
「お前が言いたいのは、好きってのは直感的なもので、こういう理由だから好きってわけじゃないってことね」
彼女は、またも「ふふっ」と笑った。
「ほんとうに、好きなんだな」
「ああ、愛してる」
涙が、こぼれた。
もう戻れないかもしれない。どうしても、そう思ってしまう。
もし、もとの世界に戻れなかったら?
一生、離ればなれか。
そんなの、想像すらしたくない。
「早口のときの一条ってさ、好きなこと、好きな人を語ってるって分かってさ、聞いてる身としてはおもしろいもんだよ」
「おもしろいか?」
「うーん、一条はほんとうにそれが好きなんだなって。話してる内容がどうとかってよりも先にさ、耳に入れてて心地よいというかさ」
ああ、電車がきた。
ただでさえ汗でしめったシャツを使って、目元をぬぐう。
「なあ一条。もしかしたら鳴宮は、お前のそういうところも好きの一要素かもな」
どうだろうな、あいつはおれのどこが好きとかあんのかな。
鼻をすする。涙が鼻水になって、つまっている。
「がんばれよ、一条」
「おう、がんばる」
電車のブレーキ音をかき消すかのように、坂本冬美の『また君に恋してる』のサビが、頭のなかで流れた。




