番犬=八つ当たりもうけるしかありません。
ばっちん!
痛い音がした、どこからしたって自分のほっぺたから響いてきたんだから、そりゃあ痛いに間違いない。頬を叩かれたおれは、なんとも言い難い顔でたたいてきた相手の顔を見る。
「だからこの家の主は今この家にいないのですから、会いたいと言われても土台無理な話なんですよ」
何て言えばこの姉ちゃん……やけに化粧臭い姉ちゃん……は納得してくれるだろうかと考えながら、おれは苛立った顔の相手を見る。
姉ちゃんはお兄さんに助言を求めに来たそうなんだが……おれの眼が確かなら姉ちゃんは明らかに、色仕掛け関連の持ち物を持っている……おれの鼻は利くからたいてい当たる……んだが。
そんないかにも怪しい相手を、お兄さんの所に通さないのも、番犬の仕事なので止めている真っ最中である。
しかし激昂してきた相手は、おれを叩くわけだ。理不尽!
それでもおれも負けちゃいられない。だってお仕事、おれのお仕事!
そして命の恩人のお兄さんに、こう言う風に迷惑をかけそうな女性なんて通せない。
男性だったら通したのかって? そりゃもちろん男性でも通さないに決まっている。
そんな考え方の結果なのか、ここ何日も、全員違う女性に、頬を叩かれまくっている。
そろそろ頬が腫れ上がって丸くなるんじゃないかな、と思うわけだが、夕食の時間にお兄さんが薬を塗ってくれるため、今のところ腫れたりはしていない。
さてそんな風に話しがずれてしまっているけれども、事実としてお兄さん現在進行形で外出中なのだ。
何でも砂漠のオアシスの果てにある、何処かの妙な神殿に御用事だそうで。
おれはそのためお留守番をしているわけだ。
だからどう足掻いたってお兄さんはここにいないのに、この女性もしぶとかった。
「彼がここ以外のどこにいるっていうのよ! あなたが通さないだけなんでしょう!」
「いや、普通に朝にお見送りしまして、しばらく帰ってこないような事を言ってたんですけど」
「嘘ばっかり!」
ばっちん! この姉ちゃんしつこいな、そして暴力で人を従わせようとするタイプなのだろうか、どんだけ叩かれても通せない物は通せないし、お兄さんが帰ってないのも明らかだってのに。
「あの、いい加減してもらえないですか? 本当にお兄さんは今日は外出しているんですよ」
もういい加減に帰ってくんないかな、まだ仕事がいくつも残ってんだけど、なんて思いっていたら、彼女は今度は最後におれの股間を蹴り飛ばし……おれの事男だと思ったのだろうか……去っていった。
嵐が去ったような感覚で息を吐きだすと、けらけらと笑い声が響く。
“お前さんがんばるなあ、あんなヒステリックなご婦人に”
「事実としてお兄さん外出中でしょ、なのにいないっていう事実で激昂されたらたまらない」
“この前は、お兄さんとやらが通すなと言ったから通さないで、呪われかけなかったかい?”
「いや、呪い何て通用しないし」
効果を発揮しない呪い何て、ただの魔力の無駄でしかない。そして呪いが聞かないと知るや否や、相手は全速力で逃げて行った。
ちょうどそのすぐ後に、調べ物が一段落したお兄さんが、人を入れてもいいと扉を開けたってのに。
あの人はもったいない事をしたわけだ。
ほかにも、お兄さんに相談しに来て、お兄さんの
「外に出してくれないか」
その一言で、おれがつまみ出している人も結構いるんだけれどもな。
そのたびに叩かれたり引っかかれたり、ときには噛みつかれたりするんだが。
お兄さんが外に出してほしいというのだから、おれのお仕事はそうなのだ。
理不尽でも何でもない。番犬ってそういう事。
ご飯は毎日出て来るし、怪我は治してもらえるし、面白いお話だって聞かせてもらえるし、温かい寝床はある。
うん、とても、快適である。
そんな快適な砂漠のオアシス、結構いろんな植物が茂っているので、ハイエルフの父直伝の調合ができるおれとしては、珍しい効果の薬品が作れて楽しい。
お兄さんも調合のスペシャリストだから、二人で変な物作りまくって、時々街に下している。
街のギルドでは、お兄さんとの共作の魔力補充ポーションが高く評価してもらえていて、お兄さんの才能の多さに脱帽だ。
おれだけで作っても、そんないい物出来ないんだから、お兄さんの才能があってこそなのだ。
おれは今日ものんびりしている。
暇だな暇だなと思えば、オアシス周辺の沙漠猫を狩るくらいの討伐をしていても、お兄さんは怒らない。
でも、家の番犬なのだから、家をしっかり守ることを念頭に置くと、どうにも外に出ようって気にならない。
沙漠フィールドの魔物は、結構強いんだから。
そして。
先ほどから疑問かもしれない、声の主はおれの腰にぶら下がっていて、表紙の目玉がぱちくりしている。
そう、喋っているのは本なのだ。
お兄さんの呪いの本の一つである。
これはお兄さんの呪い本の集合体で、何年も外に出ていないから外の空気がすいたくて、合体したらしい。
それも、呪いが通用しないおれがいるから始めた我儘で、悪さしないから外に出せってうるさいから、お兄さんに相談したら
「番犬が腰にぶら下げて、悪い事しないように見張っているなら出していいぞ」
って広い心で許してくれたから外に出ているわけだ。
一人でいるよりも喋る相手がいて楽しいし、呪い本はさすが呪い本、ほかのまじないの減退も得意だった。
おかげで帰ってもらわなきゃいけない人たちの、八つ当たりも軽減されて楽ちんだ。
おれはそんなこんなで、去って言った女性を見送ったのち、のんびり家に入って、オアシスの水にさらされて、気温よりは冷たい布切れを顔に当てて、また外に出る。
勝手に作った外のベンチ、ここがおれの定位置である。お兄さん、ベンチ作っても怒らなかったから、ここ居場所なんだよなー。
お兄さんは結構おれの好き勝手を許してくれる。たぶん番犬として頑張っているからだろう。
おれはこの周辺で、草をむしったり家の前を綺麗にしたり、窓を磨いたり、壁の汚れを払ったり、好きに過ごしている。
そしてお兄さんも、おれの暇つぶしの玩具を色々くれるので、ベンチの周りにはおれの遊び道具と仕事道具が散乱し、その中で眠りこけている事もある。
来客の気配を感じたら、起きられるんだけれどな。
よっぽど起きない時は、呪い本が耳元で怒鳴ってくれるので、呪い本も相棒感覚で身近な感じだ。
ぼろぼろのおれを無視して、迷宮の下層に降りていく元仲間たちとは大違いだ。
お互いに気を付けあうのが仲間ってやつだなって、最近真剣に理解し始めているおれ出会った。
おれはその辺に置いておいた、かんたんな立体パズルをがちゃがちゃといじる。
これをはめて元に戻す遊びが、最近一番面白い。手先を使うから集中できるし、日陰でいつまでもやっていられるし。
ただ、この立体パズル、外すと経験値入手みたいな感覚に襲われるし、組み立て直しても同じなんだよな、変な仕組みの立体パズルだ。
まあそれはさておいて。
「お兄さん今日こそは帰って来るかな」
“イヒヒヒヒっ、それ何度目だ番犬ちゃん”
「やっぱさあ。帰り待ちわびてるの犬っぽいよなー」
“おいらたちは知らねえな、キヒヒヒヒヒッ!”
四つ目、一番難しいという事で最後にしておいた立体パズルを取り上げ、さあ、ばらそうとしたその時である。
沙漠の風とは少し違う、人の何かを伴った風が吹いたため、そっちに首を向ければ。
「ああ、帰ってこられた……」
疲れ切ったお兄さんがそこに立っていて、おれははじかれるように立ち上がり、お兄さんに駆け寄った。
「お兄さんおかえり、疲れてるね、荷物持つよ」
「ああ、たすかる」
お兄さんの荷物は重たかった。道具袋としては並の奴だから、呪い本が入っている高級な奴じゃない分、中身に重さが反映されるんだろう。
それを持って手を引いて、お兄さんを家の中に入れると、お兄さんはそのまま寝台に倒れ込んでしまった。
「だいぶ疲れているねえお兄さん。ミントシロップの水割りでいい?」
「ああ、出来ればお茶がいいんだが……」
「了解」
この暑いオアシスでは、ミントをたっぷり入れたさわやかな緑茶が涼をとる定番。
おれはさっそくお湯を沸かし、お茶を入れて、ミントを入れたグラスに注いでくるりとかきまぜた。
薄荷のさわやかな香りにくわえて、緑茶の風味が、熱い中身を涼し気な匂いで満たしている。
お兄さんはそれに角砂糖のツボを引き寄せ、がりがり一つかじりながら、お茶を飲む。
「いつでもこの味というところが細かいな」
「適当に作ったってこの味になるしかないですよね」
おれからしてみれば、いつでも安定した味なのは簡単だから、なんだが。
お兄さんからすれば違うらしい。
「いつも美味しいから助かる。この味が待っていると思うと、へんな奴らの集まりにも気合いを入れていけるからな」
何て言って、おれの頭を子犬よろしくぐるぐるなでる。撫で繰り回されるのは結構好きなので、おれもお兄さんの好きにさせる。
「一週間帰ってこない物だから、お兄さんどうしちゃったかなってちょっと心配してたんですよ、あとこれ王都からの手紙だそうです、隠者に手紙ってなんじゃそりゃって感じですけどね」
「賢者とはき違えているのだろう。私が以前、錬成難度最高位の賢者の石を、作ってしまった事があったからな」
「お兄さんほんとハイスペック」
「でも料理は出来ないのだよ、これが」
「あー」
確かにお兄さんは、卵料理以外は下手だった。この何週間かで実感する事で、おれが料理した方がおいしい物にありつける。
偏った能力は、きっとお兄さんみたいな人だからなんだろう。
おれみたいに、偏る能力すらない奴とは大違いってわけだ。
うん。
お兄さんは寝台で角砂糖をまたかじりながら、手紙の封をやぶる。
そう、お兄さんは意外と雑だった。封を破る時も、封筒はびりびりになる。
開けるのが下手らしい。
そして中身の便せんをざっと読んだお兄さんが、溜息をついた。
「選定は賢者の役割であって、隠者の役割ではないのだが……」
「選定? って何するの」
選定なんて初耳の言葉だから問いかければ、お兄さんが教えてくれる。
「重要なミッションを振り分ける際に行われる儀式だ。賢者の灯す『選ばれしもののたいまつ』に名前が浮かんだ奴を、そのミッションに振り分ける儀式だ。これによってえらばれたら絶対であり、反論の余地はない事になっている」
「お兄さん賢者じゃないのに」
貴重な本と巻物の山に埋まって、日がな一日読みふけるお兄さんは、賢者みたいなえらそうな空気ないのに。
「呼ばれているんですか、お兄さん」
「選定をしろとな」
「賢者のお株を奪ったらだめじゃないですか」
「私もそう思うな」
「できませんって書状を送ればいいんじゃないですか。おれ届けますよ」
「当てがあるのか?」
「ギルド経由で、そういう手紙を送れるって前に聞きましたよ」
お兄さんが腕を組んで考えた後に、呟くように言った。
「なら、私もその制度を利用してみよう。閉じこもってばかりだとどうにも、俗世間のあれこれそれの変化に、対応できないようだしな」
そこでお兄さんは、おれの顔をまじまじと見て、言った。
「やれ、顔が腫れている。薬を塗ってやるから、そこの戸棚の瓶を一つ持っておいで」
「気付くのおそっ!」
笑いながらも言われた通りに、瓶を持って行く。おにいさんの薬指がゆっくりと瓶の中の軟膏をすくいとって、おれの腫れた頬にぬってくれた。
おれはこの時間が結構好きだ。お兄さんに構ってもらっている感じがしてさ。
「さあ、明日は町に行って水浴びをしてから、ギルドのその制度をやりに行こう」
「はい。そうだ、今朝の煮込みまだありますけど、食べます?」
おれお手製の、ブドウの葉っぱに肉をくるみ込んで煮込んだものを示すと、お兄さんは嬉しそうに笑った。
一瞬ドキリとする、そんな屈託のない子供みたいな笑顔だった。
「番犬の煮込み料理はいつでもおいしいから、ありがたく頂こう」