咒本=時々頼もしい。
ぎょっとした顔を隠せないまま、その体を持ち上げた時だったのだ。
お兄さんの双眸がぐるりという音とともに開き、それを合図にしたように、ばたんばたんと二つの扉が開いた。
「さがれマイク!」
「誰だい“ふうじかせ”の咒法を解除したのは!? そこのちび助、その男を置いて下がりな!」
「は、え、なにが」
何でそんなに。
お兄さんが目を開けただけじゃ。
吹くはずのない風が吹くまで、おれはそんな事を考えていた。
そして抱えていたはずの体がおれに縋りつき、ぐるりと獣がこすりつけるように顔をこすりつけてきた。
その冷たさは、人の物じゃなかった。
え、何が起きたの。何でこんなに冷たいの。
「お兄さんちょっと普通じゃない体温の低下だよ!? えっとこの場合どうするんだ!? そうだお前、なんか温度上げる術知らないか!」
冷たさに引きつる、低体温を超えている冷たさだ、このままじゃ死んじゃう! 人間の体は低体温で動けるようにできていない、よくて昏倒最悪は死亡。
お兄さん死んじゃうじゃないか!
腰の紐を加減なく引っ張ったせいで、ぶちりと呪いの集合体の封印がちぎれる。
ばららららっと開いた本の二つのページが、両目の形の模様を描く。
『いひひひひ、ぐふぐふぐふ、温度ってのはどの温度だ』
「とりあえずおれの体温上げて! いきなりお兄さんの体の温度上げるより、多少間に何かあった方がいいだろ! ゆたんぽくらい!」
『ぞうさもない! おいらたちをなめるなよ?』
ぎゅいいい、とおれの周囲に描かれた魔法陣。かっと燃え立つように熱くなる体に、ちょうどいいと本気で思った。
これならお兄さんは凍えたりしない。
縋りつく体をいよいよ一層抱え込んで、おれはこの場から動けないな、どうするかな、と思案した。
魔法陣を描く術は、その魔法陣から出て行ってしまったら効力が無くなるのだ。
それ位は知っているわけだ。
しかしここは天下のギルド待合室、今は早朝、これからどんどん人が集まる時間になる。
うわあ、必死過ぎて悪目立ちの選択になった。
しかしここでおれの体をさますのはちょっと嫌だ。
お兄さんは茫洋とした瞳のままに、おれの体にくっついて温まっているし。
どうすっかな。
おれはとりあえず、取りあえず……
「やった後で言うのあれだけどこれからどうしよう、マイクおじさん」
助言を求めたわけですよ。
「とりあえず、礼を言うしかないだろうな……」
マイクおじさんにいったのに、そんな訳の分からない事を言いだしたのはドリオンだった。
なんでだ。
「そいつの封じている“氷界の意識”が、お前が体温をあげて温めているおかげで、周囲に影響を及ぼさない。これは本当に想定外だ、お前は本当にただの混血とは思えない頑丈さだな」
ドリオンは周囲を見回し、どこも凍っていない事に安堵している。
小さく、氷の世界になるかと思った、何て呟きすら漏らした。
「……そのかわりに、がっちがちに因果がからみついちゃってまあまあ……これを切るとなったら相当骨が折れるわね」
目を細めているララさん。何か見えているらしい、因果とかいう物が。
そしておれの方を見る。視線を合わせないように、と思ったけれど、反射的に相手の眼を見てしまった。
「っ!」
目と目が合ったその時に、ララさんが小さく悲鳴を上げて目を覆った。
「凡骨ってマイクは言ったわね、あんた私の眼を見るんじゃないよ、眩しすぎて目がつぶれる」
「え、あ、はい」
彼女の眼を潰すものなんて持っていないが。
ララさんが言うのならそうなんだろう、と納得させて視線を彼女の襟元にやる。
彼女は清潔感のあるシャツを着ている、好感度が高い。
おれも実は清潔な衣装の方が好きだし、綺麗な衣装にいい匂いの虫除けを焚いて香りをつけておくのも好きだ。
綺麗好きなのはいい事だ、何しろ冒険者ときたら、その辺を忘れがちなのだから。
「ふう、こんなに目がくらむ術式にまみれている相手は初めて見たよ、おまけになんだい、肉の向こうにとんでもない物を憑かせているときた。ああ、目がまだ痛い」
ぼやいたララさんは、ドリオンさんに言った。
「ドリオン、あんたその二人を二階に運びな」
「運べるのか……?」
『やめとけぇ、おれさまの術式に簡単に触ったら後が怖いぞお』
懐疑的なドリオンさんに対して、聞こえない声で呪い本が呟く。
「あ、辞めた方がいいらしいです、本が言ってます」
「本? そっちの外見だけが本とかいう、呪いの集合体の事かい」
そこまでララさんの眼は看破するのか……すごい目を持ってるよな。
確かにお兄さんが苦手なのもわかる。
きっといろいろ丸裸になる眼なんだ。
「ああ、まあそれですよ。それが「それと意思の疎通ができるのかい」……出来たら変ですか」
言葉の途中で問われて答えたら、ララさんが頭を抱えた。ドリオンさんが諦めろと言いたげに、その肩を叩いている。
「ララ姉貴……隠者殿もその盾も、普通ではないのだろう。もともと普通でない物を引き寄せるのが、隠者殿の日常だったはずだ」
「大概は呪いの集合体なんてものの意識に接触したら、それに体を乗っ取られて意識が無くなって操り人形なんだよ! どこまであんたら規格外なんだ!」
ぼやいたララさんだったけれども、ぼやいても何も進まないって気が付いたらしい。
不本意らしい顔で、おれとお兄さんを包む魔法陣を見下ろす。
「凡骨……ここだとあんたも隠者も変なのに目をつけられて厄介だから、さっさと二階の部屋に戻っておくれ」
「お兄さんが凍えてしまう」
つい反論したのは、お兄さんの手がまだまだ冷たいからだ。
でもララさんの方が物事の先が見えていたらしい。
「あんたの体が冷え切る前に、部屋に戻ってかけ直せばいいだろう。その体が出してる熱は、そんな一瞬であんたのお兄さんに冷やされる熱量じゃないよ」
「……はあい」
おれの心はいくつかの天秤にかけられたものの、ここで迷惑をかけるよりは、部屋に戻って迷惑をかけた方がいい、と判断したわけだった。
「呪い本、ちょっといったん術切って」
『おうとも』
ばちん、と術が消えて一転、周囲が夜中の一番寒い時間以上に冷え込んだ。
「さっさと!」
言われるまでもないおれは、そのままお兄さんがしがみつくまま、階段を駆け上って一目散に部屋に突っ込んだ。
突っ込むと同時に、呪い本がさっきの温度を上げる術を使ってくれて、おれ自身も一息つく事が出来た。




