従者=戻ってきたその覚悟
お兄さんが軽快な足取りで、おれの手を掴んだまま廃屋の天辺から階下へ降りていく。
下の建物ももちろん、ぼろぼろの廃屋だ。
「ここからどこにいくんです?」
「ここに隠し通路がある。大体の奴は忘れているが、宮殿からの抜け道は百を超えているんだ」
百を超える秘密の通路って、おれの想像をはるかに超えた多さである。
そんなに逃げ道が必要な世界って、どんなものなのだろう。
おれが考え込む間に、お兄さんは一つの朽ち果てた絵の前に立った。
この場所の奥がどうやら、隠し通路らしい。
適当に立てかけられた、価値のなさそうな額縁を持ち上げれば、そこに、鉄格子の扉なんかがあったんだ。
色々なフィールドだの遺跡だのに入ったけれども、こんな風に町中にある隠し通路は初めてだ。
おお、すごい、とその扉をまじまじと眺めるおれ。
お兄さんはそこの鍵を開けるために、何か操作を始めた。おれにはわからない様式の鍵の開け方だ。
「ところで」
お兄さんはそのまま、おれの方を見る事無く言い出す。
「アラズは俺の事をずいぶん知っていたようだな、どこかで会った事があったのか」
そうだ、そうだった。
おれはお兄さんからすれば初対面の時に、お兄さんの事を知っているような喋りをしたのだ。
彼からすれば、いつ自分を知ったのか気になるのだろう。
誰だって、ちょっとは気になる事のはずだ。
「お兄さんが喪った過去に、おれは命をかけてもかまわないほどの恩を受けたんですよ」
おれは何げない調子で教えた。あの時の事をなくしたお兄さんに、その時の重みを喋ってもどうしようもない。
あの吹雪のなか。死にかけていたあの時。
追放されて、棄てられて、何もかもが絶望の色を宿しているように見えていた、心の中まで凍ってしまいそうだったあの時。
ごみくずみたいなおれに上着をかけて、抱えてくれた。
その事がおれにとって、どれだけの価値だったのか、言わない方がいい。
「俺が?」
ただし、おれの言った事はお兄さんにとって、すごくあり得ない事だったみたいだ。
どうやら目を見張ったらしい。それがなんとなく伝わってくる声だった。
「ええ、あなたが」
鍵から手が離れる。振り返るお兄さん。心底疑っている顔だった。
「俺はお前のように、見るからに謎めいた奴を助ける事をしないと思うんだが」
「お兄さんは“そこ”に至るまでのすべてを失ったから。」
自分の事が不思議なのでしょう、と言っておく。
凍てる選別者としての人生を、全てなくしたんだ。
そこに至るまでの人生の転機とか、悲惨な記憶とか、価値観を変える事とか、全部。
言葉をまだ続けておく。
「ただ、おれが知っているお兄さんは、いつも笑っている人でしたよ。不思議な感じに、すごく素敵な顔で」
若干眉間にしわが寄っている彼は、一層疑う顔になる。
造りがとてもきれいな人だから、その疑う表情さえも美しい。
「まるで別人だな」
「本人が言っているから、きっとそうなんでしょうね、でもお兄さんはそうだった。……ああ、あまり気にしないでください。おれはそれをあなたに求めるわけじゃない」
「取り戻したいとは思わないのか」
お兄さんが目を丸くした。
「普通は、取り戻したいのではないのか。お前の知るお兄さんを」
それはとても単純な問いかけで、おれはそれに対してとっても明確な答えしか持っていない。
「ぶっ飛んだ記憶をとり戻す手段なんて奇想天外な物、知ってたら使ってますよ。知らないし手札に持ってないし。だったら、取り戻せないとあきらめる方が話が早い。これから、また新しく、お兄さんとの関係を作ればいい。そうでしょう?」
化け物だのなんだのいう割に、おれを受け入れているようなお人よしだしさ。
そう言って笑って見せると、お兄さんはおれの頬を思い切り引っ張った。
「うわっ!?」
流石に顔の筋肉を鍛えているわけじゃないから、びっくりした。
目を白黒させていると、お兄さんは非常に険しい顔で告げた。
見た事のないすごい不機嫌な空気のにじむ顔だ。
「とりつくろった顔は嫌いだ、お前はこの俺に偽るな」
「……はあ」
別に偽ったなんて思わなかったのに、お兄さんはおれのその顔が嫌いだと言っていた。
「お前は俺の物なのだから、腹に変な物を抱えて黙るな。偽るな。……化け物風情だとしても、お前は俺の物であり、俺が抱えるものなのだから」
うーわ、お兄さんって凍てる選別者になってから相当、人格変わったんだな……
実にあっぱれな男前である。
「……惚れなおしそう」
「……お前は主人の趣味が変わっているんだな」
おれの発言に、お兄さんが理解できないという声で言う。
これに、素直に首をかしげて反論した。
「そうですか、結構いい趣味してますよ。狗になるならお兄さんだけって思っているんだもの」
「ふん」
その答えは満足するものだったらしい。お兄さんがおれの手を掴み直して歩き出す。
地下通路らしき場所は、お兄さんに反応して明かりをともす。
そういう術らしい。便利だな……秘密活動出来なさそうだけど。
そのまま結構な距離を歩いていたと思う。段々道が上り坂になっていく。
そろそろ地上かな。
「光で目を潰すな」
お兄さんが短く、これから地上だと告げてきた。
「はあい」
注意されたんだから、薄く目を細めて、お兄さんの後に続き、階段をあがる。
上に持ち上げて開く、地下収納の扉みたいなものを、お兄さんが押して開ける。
光がいっぱいに入ってきて、次にすごい声が響いた。
「カルロス様、一体どこにいらっしゃったんですか!」
「狗を見つけた、今日から飼う」
お兄さん、それが理解できる相手はきっとどこにもいない。
「は、い、狗!? どんな経緯で!?」
叫ぶ相手もやっぱり、それの意味が分からなかった様子だ。呆気に取られてでも、叫ぶ。
「この狗は俺を抱えても凍らない。俺が触っていても傷一つつかない」
扉の所では、従者らしき格好の人が唖然とした顔で、穴を見下ろしている。
お兄さんは平然として階段を登っていき、おれを引っ張り上げた。
そしてこっちを見た後、自慢げに笑った。
この笑い方、見た事ない。
「大したものだろう」
「……本当だ、凍っていない……」
おれを上から下まで見回して、その人が信じがたい物を見ているという声で呟いた。
「つうかこの部屋軒並み凍ってますね」
おれは周囲を見回して、家具から何から凍ってすごい状態の部屋につっこんだ。
元々の価値の高そうな骨とう品とかまで凍って、使い物にならなさそうだ。
凍っていなければ、すごく立派な部屋。
しかし凍っているから、その価値は紙切れみたいな部屋、である。
「ジョディはどうして、凍らずにここまで来られた」
「焔の賢者殿に頼み込み、高温を宿す札をもらい受けたんです。あの賢者の住居は火山の近くでそれはそれは熱かったですよ」
「お前だけか?」
「ええ、まあ。見てくださいよこの火傷! 劫火の札は通常状態でもすごい熱でしてね! あっはっは! 殿下そんな仏頂面にならないでくださいな。いま、これのおかげで、もう殿下のそばでもそこそこ暖かいんですからね」
あっけらかんとした笑い方で、底抜けに朗らかな声で笑うその人。
ふと唐突に分かった。
この人はお兄さんの事がとてもとても好きなんだ。
そのために、手に入れられる物への努力を惜しまないのだ。なんだってできるのだ。
つまりお兄さんの事を好きな人で、お兄さんの傍にいるためにできる限りの努力をする人。
方向性こそ違うけれど、なんだおれの同類か……嫌いじゃない。
その人の手は、確かに焼けただれたような状態で、すごく痛そうなのに、彼は嬉しそうに笑っている。
お兄さんの傍でも凍らない、って。
その笑顔で不思議になった。
どうしてこの人は、隠者だったお兄さんの所に来なかったんだろう。
こんなに好きって分かる顔なのに、出て行ったお兄さんの後を追いかけなかった事、それだけが不思議だった。
……もしかして、この人は、お兄さんに凍らされたことがあるのだろうか。
たとえば、お兄さんの兄が殺された時とかに。
ルヴィーから聞いた話だと、その時の事で、お兄さんは寂しんぼうの力と同化したんじゃなかったっけ。
その時に巻き添えを食った事が、何かに影響しなかったとは言い切れない。
それでも、この人は戻ってきたのだ。
いつ凍死させられるかわからない相手の所に、きっと自分の思いで戻ってきたんだ。
じゃなかったらこんな笑顔、たぶん出来っこない。
その覚悟は、あり得ないくらいすごい気がした。
……ああ、おれはこういった人に、贈るものがある。
おれは使わないけれど、この人には必要な物だ。
道具袋をあさったら欲しい物はすぐに見つかった。お兄さんの手を払ってその人の前に出た。
前に出て、ぐいと取り出したものを押し付ける。
「これ、使ってくださいよ」
「え、薬、と手袋……?」
彼は怪訝そうな顔になった。そうだ、説明が必要だな。
いきなり渡されても、わけわからないよな。うん。
「火傷に結構効く軟膏。こっちの手袋はその程度の温度の物からなら、手を守れる。煉獄兎の毛皮をなめしたものに、ダメ押しで黒炎牛の皮で滑り止めをつけたものだから」
その説明を聞いた後、彼は目を瞬かせて、……叫んだ。
「そんな珍品聞いた事ない! 煉獄兎は相当な上級素材でしょう! ちゅうか黒炎牛ってあれ倒せる生き物ですか!?」
確かに、黒炎牛って早々倒せない。倒す前に全滅に至る冒険者はすごくたくさんいる。
奴らは文字通り、黒くなるほどの高温の炎を操る牛であり、体の温度も普通の剣とかは溶けるほどの熱さだ。
その事実を踏まえて、おれは真顔で頷いて答えた。
その皮を手に入れる時の経緯を。
「断熱性のある装備で、背中によじ登って、冷たい川に一気に落とせば温度差で心臓やられて倒せる」
「……アラズ、そこまで化け物らしい事をしていたのか。ジョディ、この狗が何も考えないで渡しているんだ、もらっておけ」
「ええ、もらいますけど……、本当だ、軟膏強い、手袋すごい」
さっそく軟膏を塗り、痛みと腫れが引いたらしい。さらに手袋をはめて、劫火の札をもって、おれの言った事が事実だって実感したらしい。
「こんな小さな、何でもなさそうな子なのに……」
規格外すぎる、とジョディが言った。そこではっとしたらしい。
「……狗?」
「狗」
「……殿下」
ジョディさんが頭を抱えて座り込んだ。
「これ以上妙な存在が宮殿に増えたら、もう収拾がつかないではありませんか……」