ちいさなおうさま05 回送電車 中編
「部長は帰ったか」
「はい。先ほどお帰りになられました」
区長の低い声が廊下に響いています。
「今から戻る」
短く会話を済ませると、携帯電話をズボンのポケットに仕舞いました。
駅ビル事務室に戻り、所長に至急の用事が出来たと伝えると、足早に職場へ向かって歩き出しました。
「行きましたね」
所長と区長の様子を遠くから見ていた所員が、所長に近寄って来ました。
「ただの暇つぶしに来やがって……。あんなのに次の所長にはさせたくないな」
所長は区長が出て行ったドアを睨みつけています。
「おかえりなさいませ」
区長は総務助役に無言で鞄を渡すと、椅子に勢いよく腰を下ろしました。
「あの部長は話し方が気に入らん。俺より少し地位が高いだけで俺を見下してる。そうだろ総務?」
「そのように、私も思います。こちらをお受け取り下さい」
総務助役は脇に抱えていた紙袋を丁寧に差し出しました。
「これを掲示板に貼れと言われたのか?」
「その通りでございます」
区長は思い切り机を叩きました。
突然の事で総務助役は驚いて飛び上がりました。
「どうして貼って置かないんだ。見せる暇が有ったら貼っておけ!」
「は、はい!」
「こっちの封筒は?」
区長は紙袋の奥に入っていた封筒を取り出しました。
「はい。今後の人事についての事前情報となっております」
「ほう? あの部長、意外に早くやってくれたな。おい! 用が済んだなら早く掲示板に貼って来い!」
慌ただしく一礼すると、総務助役は部屋を出て行きました。
「君たちの職場は頑張ってるね! 今後も安全、サービスのレベルアップに協力して頑張ろう! 部長。なんだこれ?」
教導が区長の話し方を真似しながら掲示物を読み上げました。
廊下に大きなポスターが貼られています。
「昨日、部長が職場に来たらしいよ。この職場を褒めて行ったぞって区長が朝からあの舌足らずな口調で言いまくってる」
「委員会活動とか社内通販とか、区長が定年後の出向先を希望通りにする為の評価稼ぎなだけなんだけどな。本来の趣旨と違ってる。運転士同期のあんたも、俺と違って大卒だからな、いずれ評価稼ぎしないとならなくなるかもな」
教導は器用に片方だけ口を吊り上げて、隣に立つ同期社員に目をやりました。
「そうだなぁ、俺なら本当に意味ある委員会活動を作って評価してもらうようにするよ。今のやり方はおかしいって。三分だけで良いから出てくれとか言って、無理矢理参加率を上げているし、ろくに段取りもしてない会議だろ? 安全やサービスを、こうしたら良くなるんじゃないか。と言ったところで金がかかるのは無理だと言うしな」
「一年前の労働組合崩壊から、完全にイカれてきたよな」
「その前からも、臭ってはいたけどな」
労働組合と会社が、対等だった頃を教導は思い出していました。
教導も役員を担って、職場の問題解決や労働条件向上に力を尽くしてきました。
その頃は意見を言っても、会社も組合も真剣に考えてお互いに良い方法を執っていました。
しかし、少しずつ可笑しくなってきたのです。
お互いに譲らなくなり、小さな事も決められない程にお互いの関係は歪んでしまいました。
勤務時間内に乗務員は買い物に行ったりするな。と会社が言えば、飯を食わないで仕事なんか出来ない! それなら、管理者も休憩時間でも無いのにタバコを吸いに行くな。
もう何も協力しないぞ。と労働組合も譲らないのです。
お互いに少し譲れば済みそうな問題が、解決出来なくなりました。
それは、会社本体や労働組合本体も同じでした。
会社は社員管理の強化と利益を上げる事を目指し、組合は組織の存続と拡大を目指し、そこにお客さんの為に、組合員の為に、と言う考えは消えさっていました。
いつからか会社と労働組合の間に壁が出来上がり、自分だけの得を選ぶ者が多くなり、労働組合は一年前に滅んでしまったのでした。
「教導君、ちょっとこちらへ」
振り向くと総務助役が、手招きをしながら近づいて来ました。
「退勤簿に総務用アリと書いておいたけれど、あれ区長用アリって事だから区長のとこに行って下さいね」
「は? 区長用アリって俺は用無いですよ。何の用ですか? 総務は理由知ってるんでしょ?」
「さ、さぁ。呼ぶようにしか言われてないから」
「知ってるクセに、ずるいんだよ。あんたは」
総務助役は急に目つきを変えました。
「ズルくなんか無い! 私を通して呼ぶ事になってるんだ!」
「お、おぃ……」
同期社員は心配そうに教導を見つめています。
教導は無言で総務助役に一瞥をくれると、区長室へと向かいました。
タバコが放つ鼻を突く臭いが、教導を歓迎してくれました。
教導は区長の机まで無言で近寄りました。
「何かご用ですか? 区長」
吸っていたタバコを灰皿に押し付けて、区長は教導を一睨みしてから口を開きました。
「お辞儀もしないのか?」
「後から来る区長かわいそうですね。こんなタバコ臭くて」
「斜めに立つな。話をするなら正面に立て」
教導は言われた通りに正面に立ちました。
「相変わらず威勢だけは良いな。で、お前一人で何か出来るとでも思っているのか」
「そんなこ……」
区長は教導の声を遮りました。
「まぁ聞け! お前は家庭の理由で研修を断ったり、昇進試験を断ったり、社内通販も出さない。委員会は役に立たないからこうしろああしろだとか。何を言っても、言う事を聞かないからな。自分の力量を越える事は、身を滅ぼすから出来ないと言っていたな? 会社員なんだから何でも断れると思ってるなよ!」
「乗務員なんだから乗務するのが仕事だろ! それ意外の事やらせたいなら、それなりの時間を用意しなければ……」
「良いから聞け! なんなんだお前のその態度は! やっと目障りな組合も無くなったからな。お前みたいな奴を転勤させたくても、今までは家庭の事情を考慮しろとか五月蠅くてな。やっと、出来るようになった。前に言ったよな、人事権はこっちにあるって。お前が研修を断った指令室に転勤させてやるよ。転勤は断れないのは知っているだろ?」
「ふざけんなよ!」
教導は区長の机を思い切り叩きました。
「口に気をつけろ! お前は十日後の来月一日に転勤だ! 発令もここに用意してある」
勤務が急遽変更になり、交番勤務から教導は降りる事になりました。
急に誰かが休んだりしたら代わりに乗務をする予備勤務になりました。
「お前の見習いが審査前の日勤に降りるまで待ってすぐ転勤か。お前や見習いを思っての事ならまだ情があると思えるけど、他の教導を付けるのが面倒だったんだろうな」
「多分な」
当直前のソファで教導は同期社員に転勤の話をしていました。
同期社員は教導の肩に手を置きました。
「せめて見習いが一人乗務するとこまで、見届けてやりたかったよな」
「あぁ」
教導は肩を震わせています。
「お前、ずっと電車の先生やりたかったんだもんな。やっと出来たのにな。指令に行ったらもう運転士は……」
当直助役が小走りでソファに近づいてきました。
同期社員は訝って当直助役を睨みつけました。
「教導さん、今月末の予備の日、勤務変わって欲しいんだけど」
「こいつの気持ちも……」
今にも殴りかかりそうな同期社員の手を教導は止めました。
当直助役は二人に顔を近づけて、周りには聞こえない小さな声で言いました。
「旧型は今月末で廃車になるのを知っていますね。廃車回送担当、この区で受け持つ事になりました。やってくれますね?」
教導は無言で頷き、同期社員は顔をくしゃくしゃにして教導の肩を叩き、当直助役に頭を下げました。
元空気ダメに空気が溜まると、コンプレッサーは溜息のような音を立てて停止しました。
ブレーキハンドルに刻みが付いていて、その刻みごとに決まったブレーキ効果が得られる電気指令式ブレーキ。
加速用ハンドルとブレーキハンドルが別々のツーハンドルタイプはこの車両が最後になっていました。
「皮肉なもんだな、お前の運転をしてみたくてこの会社に入ったのに、最後の乗務でお前に乗るなんてな」
あちこち塗装が剥がれていたり、当時は最新式だったのであろう受話器型のマイクや無線機、上を見ると扇風機が古さをより一層際立たせているようです。
信号が青色に変わりました。
「上り本線出発、進行。発車一分前」
声を出して指差し確認をしました。
いつもは客を装い運転席を監視している社員がいたり、運転席の後ろに貼りつく背後霊のような鉄道ファンが気になって、指摘を受けない為の指差し確認でした。
しかし、今日は集中しているからこその自然な指差し確認です。
本来は自分の意思で確認をする為の行為なのに指が伸びていない、こうでなければいけない、声が出ていない等と言われ、やらされている行動となっていました。
今日のダイヤ札にも付けられている半透明の付箋は、徐行箇所を忘れないように貼り付けたものでした。
しかし、それも強制されている事が問題でした。
人それぞれに忘れない対策をしていたけれど、それでもミスを起こしてしまった乗務員がいました。
すると会社は対策を打ち出しました。
それがこの半透明の付箋でした。
付箋の使用を強制され、乗務員から抗議の声が上がりましたが無意味でした。
ミスを起こす原因をしっかり探るべきだと教導は主張していました。
ハード面の見直しも必要だと言う事は誰もが気づいていたけれど、それはお金がかかります。
会社が出した答えは、今やっている個人の対策より、どこの文具店でも売っている付箋を会社が用意して使わせる事でした。
ただの付箋でも帰る時には提出もしなければなりません。
この対策をした者も今では支社の課長をやっていると、同期社員が話をしていた事を教導は思い出していました。
「時刻ヨシ! 発車!」
汽笛を短く吹き鳴らし、加速ハンドル一ノッチを投入し、ブレーキを緩解させました。
椅子が先に滑りだすような感覚を懐かしく感じていました。
初めて自分がハンドルを握った時の事を思い出していました。
幼い頃に夢みた電車の運転士。
司令室に転勤すると言う事は、もう二度と電車のハンドルを握れない事を意味していました。
見慣れた景色が走馬灯のように後ろへ消え去って行きます。
回送電車なので自分の町の駅と終点以外は止まらない事が却って辛く感じました。
終点の駅には工場が併設されていて、解体される車両は必ずそこに集められるのでした。
「制限八十」
カーブをいくつか曲り、山を越えると自分の町が見えて来ました。
この景色が好きでした。
山を越えて自分の町が見えた時、自分の町のお客さんを運んだ事に誇りと嬉しさを感じていました。
教導の両頬には涙で出来た一筋の線が出来ていました。
「ブレーキヨシ! 本線場内注意! さて、決めるか」
注意信号の制限速度を保ちながらホームを目指しました。
ホームに入り、頃合いを見てブレーキ四ノッチを使用しました。
停止位置目標に止まる寸前でブレーキを順に緩めました。
列車の最先頭が停止位置目標の看板に重なる位置に停まりました。
「定時!」
運転席の窓を叩く音が聞こえます。
崩れた敬礼のようなポーズ繰り返している同期社員がいました。
教導は窓を下げ、同期社員に手を上げて挨拶しました。
「さすがだな。ブレーキは四、三、二、一で決めるし、定時だし、やっぱり同期の中じゃお前が一番上手いよ」
「お世辞はやめてくれ、所詮電車しか出来ねぇ運転士。機関車運転士の足元にも及ばねぇよ。なんだよ、見送りに来たのか?」
「ま、そんなところだ。今は、みんなで見送ったり出来ないからな。俺だけでも来てくれたら嬉しいだろ?」
「うるせぇよ。だから私服で来たのか」
「ま、そいう事。あのさ、お前悩んでるよな絶対」
同期社員は下を向きながら、言いづらそうに教導に言いました。
「俺がか? 何もねぇよ。あ、本線出発、進行! ブレーキ緩め、逆転前!」
信号機は青色の信号に変わりました。
「信号、下りたか、最後の乗務だもんな。気を付けてな」
「ああ、ありがとな」
お互いに真剣な敬礼を交わしました。
でもすぐに二人は笑ってしまいました。
「時刻ヨシ! 発車! じゃあな」
教導が、再び窓の外を見ると同期社員は真剣な敬礼をしたままでした。
列車は滑りだし、同期社員の顔も後ろへ消えてしまいました。
ホームに残った同期社員は唇を震わせ、列車が見えなくなるまで敬礼をし続けました。
「方針に従わないからこうなるんだ。従う奴を上手く使えば、目標は達成できるな。俺の出向先もこれで確定になるだろう」
社員の事が書かれた書類を手に、区長は静かに笑っていました。
その時、扉がノックされました。
「入れ」
「失礼致します。区長、大変でございます。臨時行路の回送列車が、途中で置石により停車中ですが、車両故障により運転再開出来ないようです」
「ウチの乗務員か?」
「は、はい」
総務助役は、肩を竦めて頷きました。
「なんだと! この大事な時に!」
区長は部屋を飛び出して行きました。