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ちいさなおうさま  作者: 福島信夫(ふくしましのぶ)
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ちいさなおうさま04 回送電車 前編

転職と天職は紙一重。

 煙が雲のように天井に漂っています。

 太い指に挟まれたタバコから生き物のように煙が立ち上っています。

 半分残ったタバコを逆さまに持ち直すと、灰皿に押し付けました。

 灰皿の隅に赤々と燃える火種が細く狼煙(のろし)を上げています。

 磨かれた机に載せられた書面に目を通すと、確認欄に判を押しました。

「おい、読んだぞ。次に回せ」

 扉が音も無く開き、天井の雲は形を崩しました。

「失礼致します」

 額から天辺まで肌が見える初老の男性は、(うやうや)しく一礼すると丁寧に扉を閉め、足音を立てず近寄ってきます。

 太い指で書面を前に滑らせ、書面を太い指でトントンしました。

 初老の男性は机の前で一礼すると、書面に手をかけました。

「おい」

「はっ」

「左手からだろ?」

 初老の男性は両手で書面を持とうとしていました。

「し、失礼致しました」

 初老の男性は書面を左手で、そっと持ち上げ、次に右手も同じようにしました。

 書面を両手に持つと一礼し、書面を軽く折ると左手に持ちました。

 さっと踵を返すと、扉の前で一礼して扉に手をかけました。

「総務助役」

「は、はっ」

「昼前から出かける。午後に支社から部長がお見えになる。丁重にもてなせ」

「かしこまりました」

 総務助役は深く一礼すると静かに部屋から出て、扉を静かに閉めました。

「さて、午後は挨拶まわりに行くとするか」

 胸ポケットからタバコを取りだし、口にくわえました。

 片手でマッチに火を点け、火薬が燃え尽きるのを待ってからタバコに火を点けました。

 煙を深く吸い込むと、口と鼻から勢い良く白い煙を吐き出しました。

「俺も歴代区長の仲間入りだ」

 椅子を回して後ろの壁を眺めました。

 壁には歴代の区長の名札が掛かっています。

 端から端まで綺麗な木の札が並び、一番左端には自分の名前が書かれています。

 それを見ると思わず顔がほころんでしまいます。

 太い指に挟まれたタバコは静かに燃え続け、灰が音も無く床に落ちていきました。


「え? 先生出さなかったんですか? 社内通販」

「ああ。あんなもん出してどうなる? 一般相場より高いじゃないか」

 教導はテーブルの上に広げた新聞に手を突いて、目を落としています。

 同世代の二人がテーブルを挟んでソファに座っています。

 沢山の人が働く職場です。

 後ろの自動ドアが頻繁に開くので、見習いは教導と話したり、他の職員に挨拶をしたりと忙しくしていました。

 教導は横目で当直カウンターから近付いてくる人がいる事に気が付きました。

「見習い君、教導さんごくろうさま」

 子供に話かけるような声で総務助役が声をかけて来ました。

 非の打ち所がない笑顔です。

「お疲れさまです」

 見習いはお辞儀をしました。

 教導は軽く頭を下げただけで、新聞に目を落としたままです。

「社内通販の件なんだけど、見習い君は出してくれたね。ありがとう。教導さんも是非、ご協力お願いしますよ。締切、今週末までやってますから」

 教導が口を開きました。

「しつこくないですか? この間、出さないって言いましたよね?」

 教導は新聞に目を落としたままです。

「いや、しかし会社の発展の為にも一件だけで良いから出してもらって、その……協力をしてもらってだね。他で買うなら我が社の物を是非にとお願いしてるんでね」

「協力、協力って言うけど、何? 強制なの? 俺らの仕事は買い物じゃねぇだろ?」

 教導は立ち上がり、総務助役の前に立つと、三白眼(さんぱくがん)で睨みつけました。

 見習いは困った顔で両者を見つめています。

「い、いや強制じゃないですよぉ。ただですね、お金は我が社でなるべく使ってもらって、収入を上げるのに貢献してもらって、みんなで我が社の利益を上げましょうって事なんですよ」

 総務助役は身振り手振りをしながら教導に説明をしました。

「あのね、総務。うちら、一般企業の同級生より月の給料低いんですよ? それで、泊まりの仕事ばかりだから、駅ビルの弁当とか食べるしかないですよね? 毎日三、四食買うんですよ? 十分に会社に貢献してると思いますよ」

「いや、でもお中元はね、また別だから。ウチの社内通販をお願いしますよ」

「お願いでしょ? 強制では無いってわけですよね。お中元までこの会社価格で買ってられない。いくら言っても無駄ですよ。こういう訳でしょ? 強制にしてしまったら会社が悪くなる。だから協力、協力って言ってるんでしょ? そのやり方に折れて社内通販を出してしまえば、いくらこっちが会社のやり方を批判しても、それでもあなたは納得して出したんでしょって言われて終わり。だからいくら言われても私は出しません」

 教導は腕組みをして睨み続けています。

「い、いやしかしみんな出してるし、見習い君も出してるのに教導さんだけ出さないって言うのはどうかと思いますよ」

 総務助役は教導を心配するような顔つきになりました。

「もういい。行くぞ」

「え! あ、はい」

 見習いは総務助役に、素早くお辞儀をすると大きな長四角のバッグを持って教導の後を追いました。

 当直カウンターの前面には、ポスターが数枚貼られています。

 指差確認(しさかくにん)の励行、時間厳守、貸与品(たいよひん)の管理徹底、そして一番端には社内通販を出した社員が三分の二を越えた事を記した手書きのポスターです。

 総務助役はその場に立ち続け、見習いが見えなくなると、小さく舌打ちしました。

 誰にも気づかれないように。

 

 湿気を含んだ空気が外に出た瞬間から体に纏わりつきます。

 まだ歩き始めたばかりだと言うのに、制服のズボンが肌に貼りつく感じがします。

 新幹線ホームには次の大都会行きを待つお客さんが並んでいます。

 上着を腕にかけるビジネスマン、見るからに暑そうなおばさん、つま先立ち運動を繰り返すおじさん、短パンにTシャツのお兄さんは扇子を開いたり閉じたりしています。

「遠いですね。職場の外からなら留置線にすぐ行けるのに、何でわざわざ上を通らないといけないんですかね」

 見習いは少し息があがっています。

「指定通路だからしょうがないんだ。こっちの方が安全だからだとさ」

 新幹線ホーム中程(なかほど)の階段を降り始める頃には、帽子に湿り気を感じていました。

「あついですね」

「夏だからな」


 在来線ホームを通り、留置線(りゅうちせん)の前に来ました。

「右! ヨシっ! 左! ヨシ! 列車進来ナシ!」

 見習いの大きな声が響き渡ります。

 留置線は決まった時間で無くても列車が行き来します。

 ぶつかって事故にならないように、指差し確認をする決まりになっています。

 電車を留置線から出す為には、様々な点検をしなくてはなりません。

 車輪の状態などを確認する下回り点検、ライトや蛍光灯の点灯状態、ドアの開閉試験や、ブレーキやモーターの動作確認やスイッチの確認など。

 項目として挙げれば、数百点も確認しなければなりません。

 二人は電車の脇を歩いて六両編成の一番後ろまで移動しました。

「明日から審査に向けての日勤だな」

「はい、審査前の乗務は今日が最後です」

「俺と審査の練習が出来るのは、これが最後だな。新型か……。今では旧型は四両の一編成だけ残して、この新型しかないんだよな。六両だが審査の二両だと想定して一番前と一番後ろは審査っぽくやるか?」

「はい! そう言えば旧型ってあの北の終点の隅に止まっている奴ですよね。まだ一度も乗った事無いです」

「お前は一度も乗らずに終わりかもな。今月末に廃車が決まっているんだ。どれ、やるか!」

「はい!」


「良し。では……。始め!」

 教導は腕時計のストップウォッチのスイッチを押しました。

移動禁止表示いどうきんしひょうじ無し。車番しゃばん良し」

 見習いは大きく腕を振って指を差し、大きな声で一つずつ確実に確認をしていきます。

 点検の審査では決められた時間内にミスをせずに、全ての項目を確認しなければなりません。

 必死の練習の成果もあって、見習いの動きに無駄はありません。

 その後ろをチェックリストを確認しながら教導が付いて行きます。

 運転席の背面には、家庭用ブレーカーに似たNFBノーヒューズブレーカーがたくさん並んでいます。

 一つ一つの名前を言っていては時間が足りないので、正しい位置である定位であればヨシと言い、間違った位置である反位はんいであれば間違っている事を申告します。

 反位の場合は定位ていいに戻す作業である復位ふくいをします。

 悪戯や停電などが無い限り、NFBが反位になってる事はありませんが、危ない時に自動でブレーキをかけてくれるATSのNFBも確認しなければならないので外せない点検です。 

「ヨシ、ヨシ、ヨシ、ヨシ、ATS入り、入りヨシ、ヨシ、ヨシ」

 見習いの顔から汗が滴っています。

「うん。チェック漏れなし。ここで一旦区切るか」

 教導は腕時計のストップウォッチを止めました。

 

 三両目まで車内の確認を一通り終わらせると一番後ろに戻り、車両から降りて下回りの点検をしながら一番前に移動しました。

「よし、続きをやるぞ」

 教導は腕時計のストップウォッチのスイッチを押しました。

 見習いは一気に点検を済ませ、残すは運転台のみになりました。

「ブレーキ四ノッチ二百キロパスカル以上ヨシ! 三ノッチヨシ! 二ノッチヨシ! 一ノッチヨシ! ブレーキ非常位置! 非常ブレーキ表示灯点灯ヨシ! 直通予備(ちょくつうよび)ブレーキ使用! 逆転ハンドル前、通電試験(つうでんしけん)!」

 汽笛を短く鳴らし、ハンドルレバーを手前に一刻み引きます。

 モニターに映し出された電車の絵が一両おきに三両、青く光ったのを確認しました。

「ユニット表示灯点灯ヨシ! 逆転ハンドル後位置、ユニット表示灯点灯ヨシ!」

 すぐに出発できる状態に運転台を整備しました。

出区点検(しゅっくてんけん)完了です!」

 教導は腕時計のストップウォッチを止めました。

「十七分五十四秒だ。まぁ、通しでやればもう少し早く出来るだろう。十五分では無理だが、十六分は切って審査員に見せつけてやれ」

 出区開始まで少しの時間が残り、二人は客席に向かい合わせで腰を下ろしました。

「はい! しかし十五分で点検なんて絶対無理ですよね? 普段の点検も十五分でやれなんて言われても六両なんて無理だし、あんなに細かくやってたら終わらないですよね?」

 見習いはペットボトルのお茶を、逆さまにまで持ち上げて一気に飲みました。

「お前気をつけろよ。飲むのは良いけど、見られないように飲め。今は少しの事でもすぐに挙げられるからな」

「は、はい。すみません」

「いや良いんだ、客が俺らの行動を挙げるんじゃなくて、管理者が監視している事に気を付けるんだ」

 教導はあたりを見回しました。

「ほらな」

 教導が外に見えないように駅のホームを指差しました。

「え? どれですか? お客さんが三人いますね」

「あの、灰皿のところだ。タバコを持っているけど吸ってないだろ、吸ってるふりをして俺らを監視しているんだ」

「ま、まさかぁ」

「手、振ってみろよ」

「い、いやですよぉ」

「大丈夫だ、アイツは肝が小せぇからこちらが気づいたと分かれば、挙げたり出来なくなる」

 教導は立ち上がり灰皿の男に手を振りました。

 男は二人に今気づいたような表情をすると、小さくお辞儀をしました。

「イカレてるよ、この会社は。ああやって気づかれないように乗務員の様子を監視して報告するんだ。そして自分の評価を上げて行く。全く……。出区点検だって二十分しか労働時間もらって無いんだ。隠れサービス残業だよ。こんなの」

 教導は溜息を漏らし、肩を落としました。

 見習いはそんな教導と灰皿の男を交互に見て困惑していました。


 職場には緊張した空気が張りつめています。

 スーツを着た人達が、入り口の自動ドアから入って来ました。

 クールビズでネクタイはしていませんが、高級感が漂う服装の人達です。

「いらっしゃいませ」

 当直カウンターや奥でパソコン作業をしていた社員も立ち上がりお辞儀をしました。

 素早く総務助役がやってきて案内を始めました。

「部長、こちらがワタクシ共の職場で力を入れている安全委員会やサービス向上委員会などの活動状況をまとめたポスターです」

「なかなか頑張っていらっしゃるようですね。素晴らしい。参加率はいかがです?」

「はい。我が職場の参加率は九十九パーセントとなっております。残り一パーセントは、勤務の都合などで仕方無く出れない社員でございます」

 掲示板にデカデカと貼られたポスターの前で、総務助役が熱弁を振るっています。

「そうですか、何とか百パーセント参加にしたいですね。今後もご尽力、お願い致しますね」

「はい。次回は百パーセントを目指して努力致します、さ、次はこちらへ」


「ほう、考えましたね」

「はい、区長の席から当直や乗務員を見る事が出来るように、席の配置を行いました」

 部長は真剣に、そして感心している様子で聞いています。

 総務助役は、いかに職場を良くする為の活動をしているかを説明しています。

「区長室は使っていないのですか?」

「使っておりますが、なるべく部下の様子を見れるようにこちらにも区長の席を用意致しました」

「これもやはり区長が提案されているのですか?」

「はい、全て区長の提案を採用し職場管理を行っております」

「さすが、あの区長ですね。ところで区長はどちらに?」

「はい。本日は午後から出張で出かけております」

「そうでしたか。では、次回は区長がおられる事を祈ってます」

 部長が手を上げると取り巻きの女性は、持っていたカバンから紙袋を取り出しました。

「部長、こちらを」

「うん。総務さん、これも一緒に掲示板に貼っていただけますか?」

 総務助役は丁寧にお辞儀をして、紙袋を受け取りました。

「では、私達は次の職場に参りますので、これで失礼しますよ」

 僅かな滞在で部長達は職場を出て行きました。

 総務助役は部長達の姿が見えなくなるまでお辞儀をすると、紙袋を抱いて廊下の奥へと歩いて行きました。

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