4
いつも使っている携帯電話を壊してしまった。
普段は家に電話を掛けるときに、電話番号を携帯に記憶させているものだから、肝心の番号を覚えていない。
西野美弥、お前は家の電話番号を覚えているか。
というようなことを、ばつが悪そうに告白する父親を演じつつ、ものすごく丁寧かつ慎重に述べ、家の電話番号を聞き出すことに成功するまでにそれから一時間を要した。
しかしこれで、西野家の電話番号を手に入れられたわけである。
先程買っておいたコンビニ弁当を取り出して、西野美弥に夕食代わりに与えておいた。一人分しか買っていなかったので、俺は夕食は抜きでもいいやと、先に食べておいてくれとだけ言い残し、再び玄関の框に腰掛ける。
プツッ、という相手が受話器を取った音を確認してから言う。
「お前の娘は預かった。返してほしければ、現金で百万円用意しろ」
「……は?」
「美弥さんは私が誘拐しました。娘さんが大事なら、百万円を現金で、今から指定する場所に持って来い。一々言うまでもないと思うが、このことを他言した場合、当然ながら娘の命はない」
「はあ」
声から察するに―-女性、か。タバコか酒か、異様に低い声だ。母親だろう。
指定の場所と時間を告げてから、通話を終えて折り畳みの携帯電話を反対側に折った。赤の他人の名義で買った携帯電話である。証拠隠滅はこれで完了だった。フリーザーパックに入れて厳重に包んでおく。これは後で山にでも埋めに行くつもりだった。一メートルも掘って埋めておけばまず発見されないし、よしんば発見されたとしても腐食が進んだボロボロの、それも旧型の携帯電話である。ICカードを壊してSDカードを抜き取っておくのも忘れない。
西野を待たせてある部屋に戻り、いつも持ち歩いているリュックの中から鈴合金の箱を取り出しSDカードを放り込んでおく。そこには捨てた携帯すべてのSDカードが保管されていた。杞憂でしかないだろうが、電波を遮断する仕様である。
そこでふと西野の方を見やると、あることに気が付いた。
「食欲が無いのか?」
コンビニ弁当には、手が付けられた形跡がなかった。
「いただいてもよろしいのですか?」
「いや……お前にやったんだから」
食えば、と付け足す。
「……あ、りがとう、ございます?」
疑問形の声に、あ? と、思わず返してしまった。
思わず漏れたつもりであった、つまりはそんなに険のある返しではなかったと思うのだが、それでも西野美弥はそうは思わなかったようで、
「ごめんなさい!」
正座の姿勢で額を地面にこすり付けるという、いわゆる土下座の姿勢で謝ったのだった。
どうやら彼女は謝り癖があるらしい。これは確信した。盲目であることで彼女は卑屈になっているのではないだろうか。父親(と俺のことを勘違いしている)に対して敬語であることもおかしいし―-そもそも俺が小学五年生のころは、正しい敬語の使い方など知っていただろうか。いいや知らなかった。やけに明るい態度も、開き直りの裏返しではなかろうか。
そんなことを考えながら、身代金の受け取り場所を見下ろせる場所でかれこれ数時間、俺は待機しているのであった。身代金の受け取り場所の死角となるのはここだけであり、警察が張り込んだりするのを防ぐ目的である。指定時間は午前五時。現地入りは西野を寝かしつけてすぐだ。要求の電話をかけた直後に西野美弥は眠りに落ちたので、かれこれ十一時間はこうして場を見張り続けている。床にはコーヒーの缶と西野美弥が転がっていた。
睡眠導入剤というものはなかなかどうして便利である。疲れもあったのか、まだ六時であったのに―-コンビニ弁当を二口、三口つまんだ西野はすぐに眠りに落ちた。
そろそろ約束の五時である。
空は以前闇に濡れていて、暗視ゴーグルがなければ一寸先も見えないだろう。一寸先は闇―-人生何があるかわからない。我が娘が誘拐されることを想定している親がいったいどれほどいるのか。人生といえば、万事塞翁が馬とも言うが―-この場合はなんだろうか。誘拐された娘が、無事に手元に帰ってくることだろうか。百万円を失うが娘が無事に帰ってくる。そもそも娘が誘拐されなければ百万円を失うこともないわけだが。その場合親は娘のせいで百万円を失うことを怒るのだろうか。悲しむのだろうか。それとも金さえ払えば娘が無事に帰ってくることに喜ぶのか? 子供のいない俺には想像することもできない。
音がすることを嫌って用意したデジタル時計が五時を知らせた。
ここまで何の人影もない。
それから三時間が立った。
いい加減諦めて立ち上がると、睡眠不足で血走っているであろう目をしばたたかせる。目薬が欲しい。
西野の親は、父も母も、両方とも姿を見せなかった。もちろん百万円は俺の手元になく、西野美弥の身柄だけが手元に残っていた。これ以上待っても仕方がなさそうなので、俺は散らかったコーヒーの空き缶を拾い集めると、ビニール袋に入れて口を縛り、ハイエースに放り込んでおく。手荷物はすべて、すでに積み終えていた。やはり軽すぎる西野の体を担ぎ上げると、助手席にシートベルトで固定する。可愛らしい寝顔である。これから処分することを思えば少し惜しい。
初めてであった。
我が子が誘拐された親はこれまで、面白いほどに取り乱して、指定した時刻に一秒も遅れることなく百万円を持ってきたものだったから、顔も知らぬ西野美弥の親は俺にとって未知の存在だったのだ。娘が大事なら百万円を用意しろ、俺はそう言った。娘が大事なら。百万円を用意しろと、俺はそう言ったのだ。
娘が大事でないパターンである。
俺にとってそんなことは初めてであり、つまりは人質に取ったガキの処分をしなければならないという場面に、今まで面したことがなかったがゆえに、西野美弥をどう処分したものかがわからなかった。
殺せば良いのか? それとも金持ちのマニアに売れば良いのか。金持ちに売るとしてもやっぱり仲買人とかを通したほうが良いのか? 仲買人に売るとしたらどこへ行けば良い? 俺はしがない連続誘拐犯だ。真っ黒に染まってはいるが、闇の世界の住人というわけでもない。だから殺し屋や暴力団、マフィアや特殊部隊やブローカーや闇市場に顔が利くわけでもなければ通すべき融通も持ち合わせていなかった。
携帯電話は闇市場を通してはいるが、俺が買うのはいつも違う売り手からだ。戸籍もそう。
平たく言えばみかじめ料を取られたり、組織に属することで縛られることを嫌ったのだった。
白木丘の町外れにある山の麓には、片側一車線の細い国道が伸びている。そこには獣道にしか見えない私道がいくつかあって、そのうちの一本、町に入るときに目をつけておいた道を徐行で通り過ぎ、道の片側に車を寄せて停車させた。
現在朝の八時である。しかしここは町のはずれであると同時に国道の終端でもあるらしく、見渡せる範囲には車も人もいなかった。
山道で泥を拾い、ナンバープレートになすりつけた。その時車体も汚しておき、廃車同然の見た目になるよう細工する。
それから白木丘に滞在する間に出した不要物をまとめたゴミ袋を取り出し、西野を背負うと再び周囲を注意深く確認してから獣道に分け入った。
悪の経典という小説において、主人公蓮実が少年時に殺人を犯したとき、人を殺してから穴を掘るなというような旨のことを言っている。確かにその通りだと思った俺は、もう既にゴミ捨て用の穴を掘ってあった。どうせ短期決着のつもりであったが、当然意識して探してもなお見つけることのできない位置に穴を掘り、巧妙に隠してある。まさか人質を埋めることになろうとは思っていなかったのだが、どうやら西野美弥一人程度なら難なく埋められそうだった。この辺り、やはり人を殺してから穴を掘るな、に影響されている。
幸い西野はまだ眠っているようだった。これならば穴に埋めるだけで処分ができそうだ。生き埋め。人間を殺すことは確かに後味が悪いだろうが、直接手を下す――刺したり絞めたりするよりはよっぽど気が楽である。
埋める前にコートを返してもらう。
襟に手をかけボタンをはずし、西野美弥からコートを剥ぎ取った。もうすぐ二月になる寒空の下、一糸纏わぬ西野美弥が地面に転がった。剥ぎ取ったコートを着てから、ゴミ袋を穴に放り込む。
それから西野の背中に手を回し、体を持ち上げようとして。
「……え?」
背中。
手のひらの感触。
背中に回した俺の手のひらが覚える感触は、明らかに違った。小学五年生がもつであろう肌の張りや艶まで事細かに把握しているわけではないが、それでも明らかに――これは違う。
慌てて西野の体をひっくり返す。
「は、あ?」
意味のない言葉が自然と口から漏れた。
西野の背中には。
煙草を押し付けられたような火傷跡があった。
それも一つではない。大きなバツ印を描くようにいくつもいくつも並んでいた。更に明らかに最近つけられたであろう火傷跡まであり、血が滲んでいる。
煙草だけではない。刃物で浅く切られたであろう古傷も、引き攣るようにして散見された。
あまりに痛々しいその背中の惨状に、俺は一歩を後ろに引いていた。
そこで。
そこであらかたに合点がいった。
西野美弥がその齢にして敬語に習熟している理由。
親が身代金を用意しなかった理由。
シャワーを浴びた後タオルを使わなかったのは、無かったからではなく使うことを許されていなかったから。
彼女の言動を拾って推測するに、父親から性的虐待を受けていた節もある。
夕食が食べられることにあれだけ難色を示していたことも頷けた。彼女は、夕食を食べる習慣が無いのだ。
こんなものは妄想だと切り捨てるべきだろうと思う。しかし俺はかなり聡い方の人間だ。少ない情報から推測を立てる能力に長けている。犯罪で生計を立てようと思えば必須ともいえるスキルを幼少時から持っていたおかげで今この状態があるともいえた。
初めて誘拐をした時には、この能力は犯罪をするためにあるのだと思ったが、まさかこんな形で発揮されることになろうとは、考えたこともなかった。
西野美弥は確実に。
おそらく盲目であることと場合によってはプラスアルファにより、父親から虐待を受けている。ランドセルから出てきたメモの電話番号は、「児童虐待ホットライン」に繋がった。
彼女が平均身長からはるかに低く、平均体重からはるかに軽いのも、十分な栄養を摂取することができなかったからだ。父親は、育ち盛りの小学五年生、西野美弥にろくに食物を与えていない。
夕食のコンビニ弁当を二口、三口で食べ終わってしまったのは、睡眠導入剤によるものより、彼女の胃袋の内容量の限界だったからではなかろうか。……いやそれプラス睡眠不足と心身疲労、それから睡眠不足も重なり、睡眠導入剤が恐るべき即効性を表したというのもあるのだろうが。体重が軽い、つまりは体が小さいというのも薬の効きの速さに一役買っている。
森の中は意外に静かだった。
これで雪でも降っていようものなら、雪の降る音でもしたのだろうが――生憎、何の物音もなかった。
穴と肌色と森の木々を、静寂が濡らしていた。




