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月の雫  作者: 空雛あさき
第1章 不穏の影
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08:伸ばした手は氷に触れて

「予想通り、潰れちゃいましたね」

「いつも飲む量には気をつけてくれと散々言っているんだがな」

 酒場の喧騒をあとにし、店を出たエリノアは両手を広げて大きく息を吸った。深い呼吸が、胸を夜の匂いで満たしていく。酒と煙草と人の熱気がこもった酒場から出てきた後とあっては、夜の僅かながらもひんやりと流れる空気は清々しい。夜の街は先程出てきた酒場同様に賑やかな声は聞こえてくるものの、人気は疎らで喧騒も遠くに感じる。

 赤ら顔ですっかり意識を無くしたダニエルを担ぎ、レオナルトは肩越しにその赤ら顔見て渋い表情を浮かべた。吐く息の酒臭さに、眉間の皺が更に深く刻まれる。いつものようにダニエルへの悪態が続くのかと思いきや、呟いた言葉はエリノアの予想したそれとはまるで違っていた。

「送ってやれなくて悪いな」

 ぼそりと呟いたレオナルトの言葉に、エリノアはきょとんとした間の抜けた表情になった。つられて担がれたダニエルに向けていた視線がすぐさまレオナルトへと滑り、(はしばみ)色の瞳を瞬かせる。

「軍人とは言え、『女の子』だからな」

 付け足すレオノルトの言葉はぶっきらぼうでどことなく早口だったが、エリノアの視線に気づくとふいと顔を背けてしまった。目の縁が酒のせいかほんのり赤みを帯びている。

 酒のせいだけでは無いならば良いのに、とエリノアは心の隅で思って微かに笑みを浮かべた。

「いいえ、気にしないで下さい。確かに私は女ですが、『軍人』ですから」

 レオナルトの言葉をそのままひっくり返して、自信に満ちた勝気な表情を滲ませる。

「それに、剣の師匠は素晴らしい人ですから。その辺のごろつきには負けない自信があります」

 余裕綽々の笑みを形作って、エリノアは片目を瞑ってみせた。

 気まずそうに目を逸らしていたレオナルトの顔に、堪え切れないといった苦笑が浮かぶ。ほんの少しだけ、目元が緩む。紡がれるのは厳しい言葉ながらも、口調は穏やかなそれ。

「過信するな。それは命取りになる。戦場でなくとも、な」

「心しておきます。それでは」

 月下の妖精の様にくるりと身を翻し、エリノアは帰路につこうとしたその時。レオナルトの声がエリノアの背に届いた。

「もう一つ忠告だ。仲間の力は信頼しろ。だが、それ以外では誰をも疑え」

 反射的に、エリノアは振り返っていた。

 笑みの欠片さえ残らぬ、静謐で冷淡な声音。先程までの穏やかさは欠片も残されてはいない、それ。月の光で陰になっている端正なレオナルトの表情もまた、感情が掻き消えたような、思いの底が見えない仮面のようだった。

 背筋がぞくりとした。急に喧騒が遠退いたようにすら感じる。疑問も二の句も告げられず、瞬きすら忘れて硬直したようにエリノアはただただレオナルトへと向けるしかなかった。

「勿論この俺も、ダニエルも……お前の義兄(あに)も、だ」

 何故今になってそんなことを――小さく震え、揺れた瞳にその問いを読み取ったのか、レオナルトは付け足す。

「お前が軍に入ったら、伝えねばならんと思っていた。警戒を怠れば、容易く闇に呑まれるぞ」

 口がからからに渇いていた。

 了解。たったそれだけの言葉が紡げず、浅い吐息混じりにようやく声にならぬ声で呻くのが精一杯だった。

「じゃあ、気をつけてな」

『いつものような』素っ気無い態度で空いた右手で小さく手を振り、レオナルトは背を向け通りの向こうへと消えていってしまった。その姿が見えなくなってからようやく、金縛りが解けたようにエリノアは脱力して肩を落とす。気づかぬうちに呼吸することすら押さえ込んでいたのか、どっと夜の湿り気を帯びた空気が肺に流れ込んでくる。

 耳に街の喧騒が戻ってきても尚、どくどくと心臓の鼓動がいやに耳についた。

 警告なのだろう。

 自分達を信じるなということか。


 それとも、『義兄を疑え』ということなのか――


 ◆


 深い、深い溜息を吐き出すと共に、エリノアはふかふかな長椅子に深く腰を下ろした。

 視線はぼんやりと両手の間に収まるマグに注がれている。ふわふわと立ち昇る白い湯気に、温めた山羊乳独特の匂いが乗って香り、ささやかではあるがエリノアの心をそっと静かに宥めてくれている気がした。

 レオナルトが去った後、我に返ったエリノアもまた足早に自宅へと急ぎ帰宅した。追われているわけでも急かされているわけでもなく――ただ、その場から逃げ出したいような気持ちで夜道を駆けた。家に帰り着いてからも跳ねるような鼓動は治まらず、夜着に着替えローブを羽織ったエリノアは人気のない居間の長椅子に膝を抱えるようにして蹲ったのだ。血相を変えて帰宅したエリノアを出迎えた老執事は、蜜を垂らした温かな山羊乳入りのマグをエリノアへ手渡すと静かに部屋を出て行った。気を利かせてくれたのだろう。一人で居たかった――というより、誰にどんな顔をして接したらいいのか分からずにいたのでほっとした、というのが大きかった。自室に籠もるよりは、暖炉にわずかに火がくべられた居間の方が心細さも消えるような気がした。

 唇を湿らせるようにほんの少しだけ山羊乳に口をつけ、エリノアはぽつんと呟いた。

「何で、こうも一度に……」

 もう一度深い溜息がこぼれる。

 西の山脈に現れたという凶悪で名高いブラックドラゴン。そのドラゴン相手の『捕獲』のための派兵。リムデルヴァに隣接するアディクト地方への視察。

 ここ数年、二国の関係がそれ程険悪な状況でなかったことの方が珍しいのだ。

 故郷が戦禍に巻き込まれた記憶も勿論――十年程昔に、たった一度だけではあるが経験している。戦災が見知らぬ異国の御伽噺などではないことは百も承知だ。軍に入隊することを目標にして鍛錬してきたし、学校の特殊性ゆえに士官学校にいたときから隣国・リムデルヴァとそれに関わる情勢・情報もそれなりに耳に入ってきていた。

 けれど、今日聞かされた話は、より自分は決して他人事なのではなく当事者なのだと知らしめるような内容だとエリノアは感じていた。反芻してみれば、如何に自分が心構えが出来ている『心算だけ』の人間だったかが分かる。これしきのことで動揺しているのがいい証拠だ。

 そして最も耳にこびりつくように残っているのが、レオナルトが別れ際に言った言葉だった。

『もう一つ忠告だ。仲間の力は信頼しろ。だが、それ以外では誰をも疑え』

 月を背に陰になったその顔から、静かで感情が見えない青灰色の瞳が此方を見つめていた。

 言葉そのものをとっても、あの眼差しをとっても、警告以外の何物でもないとエリノアは思う。

 けれど。

『勿論この俺も、ダニエルも……お前の義兄も、だ』

 そう警告したレオナルト自身も、気心が知れたダニエルも、――あまつさえ十年以上も親身に世話を焼いてくれる義兄のヴィクトールさえも疑えと言われることが、釈然としなかった。それとももっと他の誰かを疑えということなのだろうか。わけが分からない。

 このことについてばかりは、幾ら思考を巡らしたところで答えが出そうにもなかった。胸に何かがつかえたかのように、思考は無意味なループを繰り返すばかり。出口の見えぬ答えを探すことに疲弊し、マグを磨かれた樫材のテーブルに置くと、もう一度零れた深い溜息と共にエリノアは抱えた膝の中に顔を埋めるように伏せていた。

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