05:茜空の闇
はたと気づいたようにイルゼが顔を上げた。
空は茜色を通り越し、藍色の夜が滲み出している。
もう帰らないと、と呟きが口から零れ落ちた。
「いけない、此方が引き止めてしまったかな」
つられたようにヴィクトールも空を仰ぐ。燃えるような赤く滲んだ夕焼けの中で、鮮やかな緑の双眸が冷たい輝きを孕んでいるように見えた。その視線が滑り動いて、イルゼを捉える。肌があわ立つような感覚を覚えた。エリノアとモニカは気づいていない。二人ともまだ、空を眺めている。イルゼは口の中がからからに乾いていた。言い様のない威圧感に、視線は逸らすことなど到底出来なかった。
「いいえ、そんなことは……」
掠れた声で搾り出すようにイルゼは言葉を紡いだ。喘ぐような浅い呼吸を繰り返し、それをエリノアとモニカに気づかれないことを祈った。
先に視線を逸らしたのはヴィクトールが先だった。
一瞬だけ悠然と笑みを浮かべたけれど、すぐに最初に見せたような穏やかな笑みに変わっていた。
「では、これまでということにしようか」
やわらかに告げるその声と声音に冷たさは少しも感じない。それでもイルゼの背はじっとりと冷たい汗で濡れていた。
一度口を開き、問おうと思った言葉は音になる前に飲み込んでしまった。もう一度口を開いたときについて出た言葉は当たり障りのないお礼と挨拶。
「シュミット大将、本日はありがとうございました。では、お先に失礼します」
モニカに「帰るよ」と短く告げてイルゼは踵を返す。何かに急かされているような性急さで、イルゼは足早にその場を離れていった。
「えっ!? あ、あの、ありがとうございましたー。エリノア、また明日ー」
背を向けたイルゼと話し足りない様子のエリノアとヴィクトールの姿をモニカは交互に見やり、慌ててモニカがイルゼの背を追う。
すぐに建物の中に姿を消したイルゼとモニカだったが、イルゼはついに一度も振り返ることはなかった。その後ろ姿に僅かな違和感を覚えたエリノアだったが、深く考えるよりも先にヴィクトールの言葉に、思考は散らされてしまった。
「気を使われてしまったみたいだね」
「そう、みたいですね」
苦笑を零すヴィクトールに、自分は子供のようだと恥じてエリノアは俯いた。
「イルゼ、最初のテンションは何処にいったのー?」
「…………」
「玉の輿狙ってたのに、頭が良すぎて自分じゃ釣り合わないとか思った?」
沈黙したイルゼを茶化すように、モニカは小さく笑う。けれど真面目な口調と表情は、イルゼがなかなか見せるものではない。親に勘当された話をしていたときも、こんな深刻な表情は見せなかった。深刻でいて、どこか強張った顔でイルゼは周囲を素早く見渡す。
軍の施設を抜けた、街の雑踏の中に二人はいた。時折見かける屋台からは、薄いパン生地が焼ける匂いと、生クリームや砂糖漬けにした果物の甘い香りが漂ってくる。
いつもならばつい寄り道をして買い食いをしてしまうところだったが、イルゼは今はとてもそんな気にはなれなかった。
ややあって、イルゼは詰めていた息をゆるゆると吐き出した。
「確かに玉の輿を狙ってたわよ。でも、あんな人願い下げだわ」
「はあ?」
切り捨てるような物言いに、モニカは呆気にとられたように首を傾げた。
「あの人、何か怖い」
ふーん、と気のない返事でモニカが相槌を打った。あまり深く訊き返さないのはモニカの生来の性分だ。貧民街で生まれ育ったモニカは、踏み込んではいけない分水嶺を本能的に察している。だから続けた問いに対する答えも分かっていながら、敢えて問うた。
「最後に言いかけたのは?」
「秘密」
私も命が惜しいもの、口の中でそう呟いてイルゼは帰路へと足を向ける。
予想通りの返答に胸を撫で下ろしながらモニカは微笑んで、イルゼに並び雑踏を越えていった。
「んで、俺は気ィ使わねェんだが、ヴィクトール。お前、部下が探してたぜ」
「教官!」
不意にかけられた声に驚いて、エリノアは後ろを振り返った。気づいていたらしいヴィクトールは別段驚いた様子もなく、先程とは打って変わって冷たい視線をエリノアの背後へと投げかけていた。
「学校を卒業したばかりの人達でも気遣いは出来るというのに、大佐ともあろう人がこれぐらいの気遣いも出来ないとは。それで、何処に来て欲しいと?」
冷え冷えとした口調で畳み掛け、ヴィクトールは目の前の男を睨みつける。けれど、男の方もまた、たじろぐことなく睨み返した。挑むような不敵な笑みを浮かべたまま、犬でも追い払うかのように手を振る。とても上官にする態度ではなかったが、双方ともそれを気にしているようには見えなかった。
「第3会議室だと。さっさと行ってやれよ」
「君に言われずとも、それじゃあエリノア」
肩を優しく叩き、ヴィクトールはエリノアとすれ違う。耳元に寄せられた唇に、エリノアは体温が上がった気がした。今日は遅くなるけれど家に帰れるよ、と耳元で優しく囁かれた声が耳にじんわりと残っている。声と共に触れた吐息の温もりとくすぐったさは、子供の頃に感じたものと変わらない。懐かしさが、今も昔と変わらぬという安堵感をつれて胸に染み渡っていく。
「今日は、ありがとうございました」
ぎこちなさがほんの少しだけ解けた笑みでエリノアは、頭を下げた。ヴィクトールはやわらかく微笑んで、踵を返す。振り返り、教官の男へと向き直ったとき、その緑の双眸には義妹にはけっして見せなかった冷たい色が浮かんでいた。
教官とすれ違い様に、瞳のみならずエリノアには聞こえないよう潜められた声音までもが冷え冷えとしていた。
(バッカー大佐、義妹には関わるな)
剣呑に細めた緑の瞳が、研磨された宝石のように冷たく鋭い光を孕んでいる。
喧嘩を仕掛けるタイミングを探るような視線は寧ろ教官――ダニエル・バッカーの方。鋭い光でも尚、悠然と躱す様子を見せる視線はヴィクトールのものだった。
その一瞬の、視線の交錯。
ダニエルとヴィクトールの視線は、そしてすぐに逸れて離れる。礼の姿勢から直立へと直る途中にあったエリノアはその一瞬の視線の交錯を目に留めることはなかった。