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月の雫  作者: 空雛あさき
第1章 不穏の影
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04:至福の教え

義兄(にい)さん……」

 そう呼んでしまってから、エリノアはしまったと思った。


 外で出会えばきっと頬が緩んでしまうから、軍の敷地内では特に会うことさえも避けていたというのに。

 穏やかな笑みで差し伸べられた手を、きっと自分は振り払うことは出来ない。公私混同をすべきではないと頭では理解していても、心は縋りたくなる。

 王立士官学校に入学してから卒業するまで、一度たりとも顔を合わせなかった、その反動が大きいのだ。

 エリノアは入学まではヴィクトールの屋敷に住んでいたにも関わらず、入学と同時に寮に入った。以降、卒業するまで彼が待つ屋敷に帰ることはなかった。

 帰ることができなかったわけではない。

 帰らなかったのだ。

 士官学校に在学している間、エリノアはわき目も振らずに勉学に励んでいた。

 少しでも早く、ヴィクトールに近づけるように。

 少しでも多く、義兄の力になり、彼を支えるために。

 ある事件で孤児になったエリノアを引き取り育ててくれたヴィクトールへの恩返しでもあった。傍にいたかったというのも嘘ではない。

 そのための努力は苦ではなかった。

 ヴィクトールに会えないことの方が余程つらかった。

 けれど、会わぬと決めていたのは、エリノア自らがヴィクトールに願い出たことでもあった。

 顔を合わせていればきっと何処かで甘えてしまう。それほどまでにエリノアは自分がヴィクトールに依存していることも自覚していた。

 子供がなけなしの決意を振り絞って紡いだ願いを、ヴィクトールが受け入れたのが3年と少し前のこと。驚いたように目を瞠ったあと、静かに笑って言ったのだ。

『僕はいつでも君の帰りを待っているよ、エリノア。此処が君の家なのだから』

 そして3年後、エリノアは士官学校を優秀な成績で卒業し、王国軍入隊の推薦状を持ってヴィクトールの待つ屋敷へと帰ってきた。だが、帰ってきてからヴィクトールと顔を合わせたのはほんの僅かなときだけだ。

 軍の大隊長と研究所の統括を務める彼の多忙さは、エリノアが家を出たときよりも増していた。

 寂しさはいっそう募った。

 軍内でも所属する部隊がまるで異なるため、会う機会もなかった。会いに行くこともなかった。仕事の邪魔をしたくはない。

 会いたいという気持ちさえ伝えないまま、胸に寂しさを抱いて日々を過ごしてきた。

 不意にこんな形で遭遇できるとは思ってもみなかった。

「残ってまで自主訓練とはいい心がけだね。ほんの少しの間で良ければ、僕に手伝えそうなことには手を貸すよ?」

 ひとの良さそうな柔和な笑みを浮かべるヴィクトールの姿に、心が揺れながらもエリノアは必死に自身を自制する。寂しさに締め付けられていた胸の奥が、そっと解かれていくようだった。

「では、起動の手順について幾つかお訊きしたいのです」

 僅かに震える唇で、エリノアはそう告げた。

 視線はヴィクトールから逸らすことなど出来なかった。

 私的な場ではなく、此処は軍の内部だ。上官に対する礼儀と言葉遣いが紗のベールのように本心を覆っていた。寧ろその方が都合が良かった。

 そうしなければ、堪えていた寂しさを吐露してしまいそうだったから。

 必死に毅然とした態度を貫こうとしているのが、ヴィクトールにも伝わったらしい。冬の太陽の光にも似た金色の髪の下から覗く強い緑色の瞳を緩ませて、ほんの小さく苦笑を零し続きを促した。

 イルゼの表情がほんの僅かに動いたが、エリノアは勿論ヴィクトールにも気づいた様子はない。エリノアとヴィクトールの視線は互いに相手へと真っ直ぐにそそがれていた。

「炎系統の魔法の……」

 教官へ真摯に質問を投げかける学生のように、エリノアは言葉を続ける。モニカもエリノアの問いに真剣な面持ちで耳を傾けていた。先程までふざけていたイルゼすら、その表情は至極真面目なものだった。ただ、どちらかと言えばエリノアの質問とヴィクトールの回答よりも、どこかヴィクトールの表情を注視しているような気配があった。話を聞いてはいるようで、不意にヴィクトールに話を振られた際にも当たり障りのない受け答えをしている。ヴィクトールへ注ぐ視線はそれと気づかれないようにしていたため、話の間イルゼの様子に気づく者は誰一人としていないようだった。

 エリノアの問い、更に踏み込んだモニカの問いにもヴィクトールは淀みなく答えを返していた。専門用語も難なく理解し、説明の際には分かりやすい言葉に置き換える。明確な回答が出来ないもの――例えば実験的な魔法に関するものは、想定される結果と理由でもって回答としていた。ヴィクトールの、魔導研究部門統括という肩書きは飾りではないことがよく理解できる一面でもあった。


 エリノアがささやかな幸福感を覚え、短い質疑応答が繰り返される。

 その光景を、離れた場所から鋭い視線で見つめる男の姿があったことに気づいていたのは、ヴィクトールただ一人だった。

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