01:月の涙を拭った手と手で
嵐のような一夜は、混乱の跡をくっきりと残して去っていった。
広範囲に渡って、魔力の枯渇と飽和を繰り返し、力を綯い交ぜにした嵐が止んだ後。その中心部に残されたのは、一人の少女と、一人の異形の青年だけだった。
ラグジエント軍の野営地を蹂躙した、その魔力の嵐から二日後のこと。
エリノアとレオナルトは旅装に身を包み、ラグジエント王国の南西に位置するティスレインとの国境を跨いで広がる森の中にいた。
馬はない。これから二人だけで、自分達の足でこっそりと国境を越えて行かねばならないのだ。
そんな二人の腕には一つずつ、揃いの細工の腕輪が嵌っていた。幅広のその腕輪の中央に嵌め込まれた水晶が、時折滲む色を変える。
俯き腕輪に視線を落としていたエリノアが顔をあげると、羽織った外衣のフードからさらりと零れ落ちた髪が、光に煌めく。それは以前のような、陽光に煌めくような蜂蜜色の髪ではなく、月光にこそ映えるような銀色の髪に染まっていた。
魔力の嵐が収まった後のことを二人はよく覚えていない。
ただ、気がついたときには既に秘密裏に野営地から運び出され、この森の小屋で保護され、治療を受けていた。
ゆえにあの嵐の後の出来事で知ることが出来た内容は、そこで伝え聞いたものばかりだ。
たとえば被害の話であれば、野営地での犠牲者は思いの外少なく済んだらしい、ということだ。
事前にドラゴンが檻を破り出てきたこともあって、迎撃態勢を整えるべく一時多くの者が退いたこと、そして情報操作によって退かされていたお陰であったのだという。
正直なところ、自分の義兄が振りまいた混乱に巻き込まれて命を落とした兵達のことを思うと、エリノアの胸は酷く痛んだ。彼らが賭けるのは彼の野望などではなく、国のためだっただろうに。
そして、その全ての元凶であったヴィクトールはというと、胸を貫かれ魔力の渦に呑まれた彼の姿は、亡骸さえ未だ見つかっていないのだという。
もしかしたらどこかで生きているのかもしれない――そう思ってしまうのは未練がましいのかもしれない。エリノアは義兄を止めたいと思いながら、結局生きて償う道も願ってしまっていたのだから無理からぬ話ではあるのだが。
ただ、魔力を根こそぎ吸収するようになったレオナルトの体、その一部である竜化した爪が体内に潜り込んだことで、体の内側から魔力を喰らい尽くされた筈だ。エリノアによって魔力防壁さえも解かれた状態で、あの魔力の渦の中で生き残れるとも思えなかった。
戦争の行く末はといえば、双方で内々に動いていた者達の働きが功を奏し、双方がぶつかり合う前に停戦させることに成功したのだという。両国の関係を悪化させるべく刺客等を放ったり工作していた人間も、其々の国で捕らえられ、今は取調べが始まっているのだという。
流石に、願ってやまなかった平和調停までは辿りつけなかったが、激戦になることもなく、虐殺が起こることもなく終結したのは幸いな部類に入るのは間違いない。
そして幸いと言えば怪我の具合のこともそうだった。
目が覚めたとき、レオナルトの怪我自体はすでに完治していた。
魔力の嵐の中、エリノアの手を取った直後にあれだけの跳躍をこなせたのだ。あの時には既に殆んど傷が塞がっていたのだろう。ドラゴンがもつ高い治癒力のお陰かもしれないと考えると、多少はその力に感謝せざるを得ない。お陰で、抉られた脇腹も、剣が貫通した大腿部も傷一つ残っていなかった。
ただ、体内の魔力が絶えず枯渇状態にあり、エリノアの傍にいて供給を受けることで、生命が保たれているに過ぎなかった。結局魔法によりドラゴンと融合してしまったレオナルトの体は、人のものに戻ることはなく、各所にドラゴンの片鱗が見てとれるままである。
対してエリノアの方は、旅装の中に納まった左の上腕には、まだ包帯が痛々しく巻かれていた。素早く的確な魔法治療があったことと、レオナルトと共にいることで魔力が上手い具合に活性化されていることで、傷が塞がるまでにそう時間はかからないらしい。内臓と脚の怪我はともかく、腕の傷は流石に後遺症と傷痕が残ってしまうと言われたが、エリノアとしては命があっただけで充分だった。
またレオナルトとは対照的に、エリノアの体内の魔力は常に飽和し流出している状態にあり、魔力を吸収し続けるレオナルトの傍にいなければ、自身の周囲の生き物全てを魔力で蹂躙し尽くしてしまうという状況らしかった。
だからよー、と恍けた声音で男は言う。
「お前らはこの国を出ろ」
「ダニエル……他にもう少しマシな言い方はなかったのか」
エリノアと嘆息して言葉を返すレオナルトの目の前には、一組の男女の姿があった。そのうちの男の方はダニエルであり、女の方は――
「本当にアルムスター少佐のいう通りですよ。見送りがそんなにこそばゆいんですか?」
くつくつと零れる笑いを隠そうともしないのは、殺されたと聞いていたイレーネ・チェルハ本人だった。
「……ええと」
困ったようにレオナルトを仰ぎ見たあと、エリノアはイレーネに視線を戻す。
死んだはずのイレーネがなぜ生きているのかというと、ヴィクトールを不審に思い彼の身辺調査をしていたイレーネが命を狙われ――それを知ったダニエルの計らいにより彼女は死んだように偽装工作され、その後は陰で動いでいたのだという。
「だーかーらー」
ダニエルはイレーネを一瞥して、面倒くさそうに言い直した。
「結局お前らは、アイツが意図した通りの力を持ったんだ。意思がある侭なのは僥倖だったがな、このままじゃあいずれ軍の上層部に利用されるのは免れないだろ」
勿論、人の命を無闇に奪うことにエリノアもレオナルトも加担する心算はない。けれど、この遣り取りの前にも交わされた会話の中で言われたのは、人質の有無も含めての話だった。
互いの命を盾に取られたら。
他の親しい人間を、もしくは恩人を盾に取られたら。
それを見捨ててお前ら二人はその要請を拒否できるのか。
そんなダニエルの問いに、二人は返答に窮してしまった。その反応はダニエルにとっては予想通りのものだったらしい。
「お前らは優しすぎるんだよ。優しいのはいいことだがな、それだけじゃあ全てを貫くことは難しいんだよ」
まあ、俺らにはない優しさを持ってるってことでもあるんだがな、と煙草を咥えたままダニエルは苦笑を浮かべたのだ。
そもそも元の体に戻すことが出来れば、そんなことは杞憂に終わるのだが、如何せんその研究が完遂する目処はまるで立っていないのだという。天才とも言われたヴィクトールでさえ十年以上の歳月をかけて進めてきた実験の結果なのだ。研究資料を紐解いたところで、都合よく元に戻す方法など出て来たりはしないだろう。元より戻す必要性があったなどと、彼は思っていなかったに違いない。
そういった状況で、王都どころか、国内で誰かが匿い続けるには到底無理があった。
エリノアはともかく、ヴィクトールの容姿では迂闊に外にも出歩けない上、そのような状態では長く一所に留まり続けるのは難しい。国内ならば尚更だ。
だからね、とイレーネが微笑む。
「二人の体を元に戻す手立てとなるものを、何か探してきて欲しいの。私達の仲間から連絡役がつくけれど……期限も分からないままどこかに閉じ込められているよりは良いと思うのよ」
今の私達ではすぐに元の体に戻すことは無理なの、ごめんね。そういって眉根を微かに寄せる。
いつもマイペースで余裕綽々な彼女に、そんな顔をさせてしまったことにエリノアはまた胸が痛んだ。
イレーネに申し訳なさなど感じては欲しくなかった。哀しまないで欲しかった。
ただ、何より無事でいてくれて良かった。思ったのはそれだけだ。
彼女の頬に手を伸ばしかけたその手を、はたと気づき、エリノアは引き戻す。無為に触れれば、親友の命を奪いかねない体になってしまったことを、一瞬でも忘れかけた自分に嫌悪すら覚えた。
けれど。
とん、と軽い衝撃と共に覆い被さる白銀の髪。そして預けられた軽い重みに目を剥く。
「い、イレーネ?!」
「何を躊躇ってるの。怯えなくていいのよ、私は死にはしないわ」
苦笑と共に見上げたイレーネの口調は、まるでエリノアの内心の動揺を正確に読んだかのようだ。それにね、と抱きついてきた彼女は続ける。
「私が死んだら貴女が悲しむじゃない、そんなの嫌よ。それとも何? 別れの抱擁もしてくれないの?」
親友なのに、と苦笑を柔らかな笑みに変えたイレーネを、エリノアもまた顔をくしゃくしゃにして抱き締めた。
イレーネはそんなエリノアをあやすように背中をさすっていたが、暫くすると体を離し、彼女の左腕を優しく取って、その腕に嵌った銀の腕輪を指先でなぞった。
「ねえ、エリノア。これはね、貴女とアルムスター少佐がある程度離れても、互いの魔力が暴走しないための保険となる魔導具なの」
銀色の腕輪がイレーネの指と共に、エリノアの腕でくるりと回る。
そもそも現状ならば、腕輪なしでも二人がすぐ傍にいれば魔力の暴走は中和され、周囲に影響は及ぼすことはない。とはいえ、触れればその影響を強く受けるし、害を及ぼす。だからといって、人と一切触れぬ生活など無理がある。
この腕輪はもう少し魔力の影響を緩和させるためのものでもあるのだ。
だから、多少離れても腕輪が魔力を抑えてくれるのだ、と。
そうイレーネは説明してくれた。
「腕輪を嵌めた状態でも許容範囲以上に離れれば、暴走の予兆は現れるから……まあ、小さな町の中程度なら離れても大丈夫だとは思う。けれど、試してはいないの。極力離れないようにしていてね」
イレーネは万が一のときのためにエリノアとレオナルトに、魔力の暴走を抑えるための幾つかの魔法を教えた。腕輪をその魔法の発動の基点とし、プロセスのほぼ全てを腕輪自体に組み込んでいるため、詠唱の言葉と発動の言葉が分かっていれば、両者ともほぼ差異なく使うことが出来る。これも一時凌ぎにしかならないが、やはり知っているのと知っていないのとでは心持ちも違うだろう、と。
さてそろそろ頃合だな。そう、太陽の位置を見ながら言ったダニエルの言葉に、エリノアとレオナルトは頷き、荷物を肩にかけた。
「いい報告を待ってるからな」
「土産話も期待してるわ」
口々に言う二人に、エリノアとレオナルトは笑って小さく手を振る。
このまま待っているだけでは前に進めない。
人に死を齎す力を溢れさせるだけの存在でいる心算など、二人にはない。
だから自分達は国を出て、元の体を取り戻すための手掛かりを探す旅に出るのだ。
繋いだ手の、その腕で、銀の腕輪がくるりと回る。
離れられないのではなく、自分達の意志で離れたくないのだと言える存在になれるように。
腕に嵌めた銀環が、枷ではなく、其々が身につけただけの飾りであり、絆となるために。
「行って来ます」
二人はそう告げて、陽の光が射し込む森を後にした。




